2014/06/09
あの宮本武蔵には子供が居なかった。武蔵小金井(JR線)と言って……漫才のネタにあったが、その小金井には江戸の末期に名のある親分衆の一人小金井小次郎(1818~1881)が縄張りを張っていた。
昭和50年頃はキャバレーやクラブで歌や演芸をショーに入れて大いに盛り上がったものだ。小金井にも外国女性をホステスにかなり繁盛していた店があって、そこへショーで仲間のジュン高田というのが出た。うれしさんの所から近いのだから遊びに来ないと電話があって、今は名古屋に居る青空星夫(弟弟子)と一緒に行って飲んでいるとやがてショータイム。ジュン高田が十五分程しゃべった所で、今日は私の兄貴分で青空うれしさんが弟分の星夫君と客席に見えていますのでと紹介。ステージに上がるハメに。一曲歌った後に星夫が「網走番外地」を歌ってよせばいいのに仁義を切った。
ショーが終わったら一人のホステスが俺を呼びにきた。ついていくとテーブルにいかつい男が二人座っていて、下からグッと凄みをきかせ「オイ、あんな所で舎弟に稼業の仁義やらせるのか!」。なるほど、その日のオレの服装が金ブチの眼鏡に白い上下のスーツ。おまけに黒いYシャツではヤクザ者に見えたのだろう。相手は小金井一家の分家で石家のSと名乗った。そこで小金井の六代目石井初太郎サンとは親しい者で……と嘘も方便。アチラは逆にこちらの席にビールや果実などの差し入れ。だがバレぬうちにとそこそこに帰ったコワーイ思い出。
小次郎には1200人もの子分が居た。安政三年に度重なる博奕が因で三宅島に流されたが、明治の大赦で12年ぶりに放免になって戻ってきてからは、その島帰りの顔を利用して大きく伸し上がったという。
西南の役の碑を建立するに当たり余興の大相撲を三日間催し、当時人気力士の大関境川と朝日嶽らを呼んで無料で人々にこれを観させたので、小次郎親分の株が一気に上がったとか。人と会うときは必ず折目のついた羽織を着て出たというから、白い服に黒のYシャツとはえらい違い。調布や府中の治安も小次郎のにらみがきていて平穏だったという。
明治14年8月5日、あの浅田飴の創始者で幕府の奥医師の法眼浅田宗伯が診に来て、寿命はあと二、三日と診断。果たしてその二日後、子分衆がつめかけていると、親分は着物を着替えると言い出し、仕立て下ろしの着物を着た。身内の者は揃っているかと言うと、襖を開け皆の顔を見渡したら「おらあもういくからな。お前らも体を大切に立派な男になれ。永えこと世話になった。お礼を言うぜ」と言ってその場へ座り大往生を遂げたのだから、ヤクザ者としてはいい死に方をしたのではないだろうか。
生まれ在所の小金井の前原にその墓があり、墓碑銘を山岡鉄舟が書いているのだから、やはり並みの親分ではなかったのだろう。並みの親分でないのは親父さん(オレの事)だってそうでしょ。じゃ並でなく特上の寿司でいきましょうと弟子の遊歩。