2014/06/09
「おもしろお墓百話」PARTⅢの原稿〆切が二日前に迫った2003年1月18日、ボクは愛媛の松山空港に降り立った。出迎えてくれたNTTの本山義文君はかつて駒大野球部で元巨人軍中畑清君と同期。そしてボクのチームの助っ人としても活躍してくれた。
その彼がハンドルを握ってくれて、予め調べておいてくれたプロ野球草創期の大選手、景浦将の墓へ案内してくれたのは有難かった。松山の市街をぬけて伊台町という静かな山間の地に何人かの軍人サンと並んで建っていた。写真を撮ってその足で景浦の出身校である松山商業に向かう。名門の監督がニコヤカに迎えてくれた。沢田勝彦監督はオリックス・ブルーウェーブの石毛宏典監督と同期でこれ又ボクちゃんの後輩。寒い校庭で熱の入った指導をしていた。
ある高校で先輩が、お前らの打ち方は何だ、セコな夕立じゃあるまいし、パラパラ打ってたんじゃ点につながらんだろうが、もっと固め打ちせんかい。固め打ちせーよ。と言って監督室で話終わって帰りに見ると、皆が片目つぶってスイングしてる。「オイ、お前ら何してんのか」「ハイ、片目打ちの練習してます」。これにはズッこけたという話で大笑い。
景浦はこの松山商業(当時は中等学校)5年生で春の第九回全国選抜中等野球大会に、三塁手兼投手として出場し優勝を果たしている。そして立教大学に進み投手と外野手をこなして、昭和10年秋の東京六大学リーグ戦で2本のホームランを打ち、投げても3年間で8勝7敗の成績をあげた。当時は六大学の人気は物凄かったが、11年にタイガースが結成されるとぜひ君の力をプロで発揮してほしいと引っ張られて入団。そして投手・三塁手・外野手と器用にこなし戦力となった。
その肩の強さは正にオドロキで、遠投114mという凄さ。今計ったら150㎞/hは超えるスピードと、その豪快なバッテイングはタイガースファンは勿論、球場につめかけた野球ファンすべてが惜しみない拍手を送った。快速球の沢村対強打の景浦の対決は江夏対長嶋でありランディ・ジョンソン対バリー・ボンズであったのである。
昭和12年秋、3割3分3厘で首位打者をとり、12年春と13年春に打点王もとっている。投手としては11年秋に6勝0敗で勝率十割。防御率0・79というご立派サン。もし戦争がなかったならば(昭和25年第二次世界大戦中フィリピン戦線で死亡)あの沢村栄治と共にプロ野球の歴史はかなり変わったものになっていたに違いない。長嶋ミスターの背番号3は永久欠番だが、それをつけていたのが2002年の暮に亡くなられた千葉茂さんでこの方も松山商業の出身。
東京に戻って中畑清家へ立寄り、同期の本山や松山商の沢田が宜しく言ってたぜと報告し、以前貰った千葉茂さんのサインボールは貴重なもんになっちゃったな。ツイ先日マスターズリーグの開幕で始球式やったばかりなのにわからんもんだな。もし景浦のサインボールなんか持ってたら凄いだろうなと言えば、中畑クン「景浦サンのサイン欲しい?」「貰ってやろうか、ウチに来てる保険屋の景浦サンだけど」。