美人で暗く逝った ダリダ(1933~1987)

2014/06/09

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

ダリダって知ってるか? 「それ誰だ?」。

いやシャレではなく超有名だというこのシャンソン歌手の名を知る人は少ない。実はこの私めも知らなかったというお粗末でして。モンマルトルの丘にあるサクレクール寺院を見学してから墓地へまわって、エミール・ゾラやアレクサンドル・デュマ(椿姫)、作曲家のオッフェンバック(天国と地獄)(ホフマン物語)などの墓をパチリ。その中にひときわ目立つ墓所が目に入った。ウワーッきれい! と思わず叫んでしまったその墓が「ダリダ」。同行の彫刻師・鈴木氏はあんた芸能界にいてこの人知らないの?と哀れむような眼差しでご覧になる。ああ情けなやと教えを乞う素直なボク。


本名ヨランダ・ジオッテイはイタリア人の両親から生まれた。お父さんはカイロのオペラ劇場のヴァイオリン奏者であった。1954年にあったミスオンデイヌ(水の精)というコンテストに出たら見事優勝してしまったというから美人なんですね。美しくて才能があればフツーの女で終わる訳は無い。ハリウッド映画にも出演した。


しかし彼女は演技より歌が好き。イヤ男も好きでロマンスのお話も数々でありましたが、とりあえずは歌手の道を選んだのでして。1955年にダリダは“カイロかなカイルのよそうかな”と歌いながらカイロを後にして花のパリへ移ったのでした。そして翌56年には早くも「バンビーノ」が大ヒットしてたちまち有名人。なのに青空クンはその名を知らなかったのであります。その帰りにモンマルトルにある彼女の旧居を急きょ見に行ったりしても遅いのですよ。


不幸な結婚生活があって1967年に自殺未遂を起こし、それからかつての明るさが無くなって何か悲しみをこらえながら歌っているようなステージだったという。カーネギーホールにも出て名声を博したのに実生活での幸せは得られなかった。もし彼女に子供がいたら人生観も変わっていただろうに。87年5月3日、モンマルトルの自宅で睡眠薬自殺をしてしまった。


ダリダは2度来日していて、1回目の1970年(昭和45)の時にウチでは長女が生まれ、2度目の来日1974年(昭和49)に2男が生まれたという、子宝に恵まれぬ彼女が来た時にウチでは子供が生まれるという因縁めいたお話はさておき、ズーと後になってカミさんがポツリと話した昔バナシ。甲府で知人に頼まれて喫茶店でアルバイトを3カ月ほどしてたそうな。その店の主人が大のシャンソン好きでレコードを何百枚も持っていて1枚1枚大事そうにそっとプレーヤーでかけて店へ音楽を流していたそうな。


その店の名が“ダリダ”だったという。しかし年の差のある若くて美人の奥さんが、東京のお客さんといつしか恋仲になり逃げてしまったとか。ご主人ガックリきて寝込み、もはや仕事にも身が入らず、遂には店を閉めて何処かへ消えてしまったんだって。ダリダの歌った「暗い日曜日」のタイトル同様その日も日曜日だったとか…。ちなみにカミさんのアルバイト料も貰えずだったというからこりゃダメダ!!