2014/06/09
ムッシュ品田というマジシャンから電話があって、「昔のSPやLPを2000枚もっている人が居るんですよ。今度の土曜日の夜それを聴きながら一杯やろう、というんですが行きますか!」。丁度何もないので一緒に行きましたよ、一応ツマミになる物を持って。ところがレコードかけてくれるのはいいがクラシックばかり。こっちは岡晴夫とか東海林太郎なんかがあるのかと思ってただけにブラームスやハイドン、シューベルトには参りましたネ。
しかも、その平沢保サンという保険会社の人は平然と焼酎に焼鳥、おでんにキムチをすすめながらレコードをかける。シューベルトと焼鳥や焼酎はどーも合わない感じ。それでも2時間程度我慢して帰ることになったら、「そうそう、いいチーズとハムがあったんだ」。口惜しいね、こんなの。帰りに品田さんと喫茶店に入ってコーヒーにシュークリーム食って憮然。「いや参りましたね。私も歌謡曲だとばっかり思ってたんで」としきりに恐縮。
シューベルトはウィーンに生まれた。父が小学校の校長センセ。子供に伸び伸びと生活させたから、素直な少年として近所でもシューちゃんシューちゃんと評判がいい。1808年、シューちゃん11才の時にウィーンの宮廷少年合唱団のオ受験に一発でパス。そして1841年に小学校の助教員になる。早くから声楽曲を作曲していたが、最初の傑作は「糸を紡ぐグレートヘン」でゲーテの詩であった。これは周囲の人々から中々やるじゃんと誉められた。彼はモーツアルトを愛し、ベートーベンを尊敬していた。一時オペラにも熱中してオペラ劇の曲を書いたりしたが、この方はあまりいいモノが無くリート(ドイツ歌曲)にすぐれた作品が多かったという。
1917年に当時名高い男性歌手のフォーグルに認められ、彼の歌唱によってシューベルトの名声も高まったのである。19年夏、フォーグルと共に北部オーストリア各地を演奏旅行した。「さすらいの夜の歌」「恋人のそばに」「笑いと涙」「美しき水車屋の娘」といった曲は各地どこへ行っても喜んで受け入れられた。
話変わってうれし宅。電話のベルが鳴った。受話器をとると、ムッシュ品田さん。あ、品田です。この間のね平沢君から電話がありましてね、先日は時間があまり取れなかったようなので、折角お呼びしたのに何曲も聴いて頂けなかったので、是非もう一度来て欲しいって言うんですよ。漫才のうれしさんがシューベルトやバッハがお好きだなんて感激したと言っているんですがどうします? バッハ?
バッハな事言ってるんじゃないってえの。ベートーベンより弁当の方がいいし、ブラームスよりブラウスでも女に買った方がいいよ。暫く仕事が忙しいし、来月はアメリカだとでも言っといて。すると今度は平沢氏自身から電話。受話器の向こうから聞こえてくるクラシック。ゾー!! 「品田さんからお聞きしました。アメリカから帰ったら是非来て下さい」。
久々に二男の所へ行ったら赤ん坊寝かせながら「シューベルトの子守唄」のCDが流れていた。もうイヤ。「赤城の子守唄」にしてくれ!!
写真:ウィーン中央公園墓地にあるシューベルトのお墓