傷だらけの人生 井上 馨

2014/06/09

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

毎年大勢の人が海外へ観光旅行に出かけて行くが、必ず人気の3番目までに入っているのがハワイ。

明治元年4月に150名程の人が非公式渡航したというが、公式に国が認めてのハワイ移民としては1885年(明治18)2月17日のことであった。56名の人がシティ・オブ・トーキョー丸で横浜港を出帆したというから、まだ帆船であったのか?


このハワイ行が実現したのは外務郷井上馨とハワイ公使アーウィンとの間に移民条約が結ばれたお陰である。


井上馨は長州藩士井上光亨の次男で、早くから蘭学を学び砲術研究のため江川塾に入った。海軍研究のため英学を修業し、1862年(文久3)に伊藤博文らとイギリスに留学する。


だが四国連合艦隊が下関を攻撃という報を受けて急ぎ帰国し、伊藤と共に和平論を唱え藩論を倒幕に転換させた。自分たちの目で見た外国の強大さに、このままでは日本は滅びてしまうという危機感が生じたのだろう。

大体「馨」(かおる)などという優しい名を持っていながら気性激しく、その顔や身体には幾つもの刀傷があった。一朝事あるや身命を忘れてこれにあたって何度も生死の巷を潜ってきたという。


もうじき維新の幕が切って落とされるという元治元年9月25日夜、毛利候の会議で反対党を向こうにまわし、幕府に対する武備を強力に主張した井上聞多は、湯田の自宅へ帰る途中で暴漢に襲われて背中にグサッと短刀を深々と刺し込まれた。知らせによって兄の五郎三郎が駆けつけたがもはや息絶え絶え。苦しい息の下で「兄上、介錯を!」。


兄もどうせ助からぬ命、せめてひと思いに死なせてやる方がと刀を抜く。


「待っておくれ」とこの時、母のふさ子が声をかけた。「さあ、斬るならこの母もろとも斬るがいい」と血だるまになっている聞多を抱きしめた。そして母の必死の願いが通じ一命をとり止めたのである。聞多30才、後に馨と改名して維新の元勲となったのだ。


維新後、新政府に入り、民部大臣、大倉大丞を兼ねて大阪造幣寮を創立した。そして廃藩置県の事に当たった。1885年(明治18)内閣制度が成立すると初めての外務大臣となった。その後、黒田内閣では農商務大臣、第二次伊藤内閣で大蔵大臣となり条約改正、行政整理、日清戦争後の経営の立直しなどに当たった。


毎年のようにハワイへ行っているボクも今度(2003年5月のこと)ちょうど20回目のハワイ旅行になるが、一行25人の中に2人の井上さんが居るのも因縁。


なお念のために言っておくと1人は女性で看護婦。もう1人は男性で建築屋さん。そして顔にも背中にも傷は無い。