2014/06/09
あれはそうボクがまだ駒沢大学の2年生だったから昭和29年頃だろう。その頃毎晩のように渋谷の居酒屋で焼鳥を食い、塩豆をかじりながら二級酒をあおっていた。いまはビール1杯で赤くなるが、その頃は底無しに飲んでいたのである。
その店にいつも黒のベレー帽をかぶって来ていた自称画家のオッサンが居た。酔う程に饒舌になる上すぐノートを広げて「君の顔描こうか」とくる。そしてその代償は二級酒1杯で、グラスに注がれる酒が下に敷かれた小皿に溢れるぐらいになると「ストップ・アンド・サンキュー」といっていかにも嬉しそうな顔をした。
この人が梅原龍三郎の甥だといつも言っていたが誰も信じなかった。いやそのオッサンはどうでもいい。その店のママが色白でムッチリ型のメチャ魅惑的なすこぶるつきの美人だった。大学へ行くより真面目に店に通った甲斐があってそのママさんと密会を重ねるようになったのだから幸せモンでした。しかし所詮相手は人の妻、伊豆の旅館での思い出を最後に別れました。これで最後…一晩中燃えた朝の食事はもう箸を持つ手が重く感じた程でした。
それから半年して岡山の旅に出て倉敷の大原美術館で彼女と再会したのです。イエ、実はそこに飾られてある裸婦の油絵に、アッと息をのみました。ああ正に忘られぬ彼女がそこに居たのです。それは梅原龍三郎の「竹窓裸婦」という迫力ある絵だった。もう感激で目がクラクラ。
梅原龍三郎は京都で明治21年に生まれた。中学の時、病いに倒れ退学してしまう。だが絵の方の才能があると周囲の人に言われ、自分もその道に進もうと浅井忠の聖護院洋画研究所に入った。明治41年(1908)にフランスへ渡りルクサンブール美術館で見たルノワールの絵に驚嘆した。これだ、これこそ私が求めていたモノだ。龍三郎は78才になっていたルノワールの門を叩いたのである。数年間のフランス留学を終えて大正2年(1913)に帰国し、描きためた百点をこす作品を展示した。帰国した翌年に二科会が創立し梅原もこれに加わった。メンバーは津田青楓、石井柏亭、有島生馬、斉藤豊作、坂本繁二郎、山下新太郎、湯浅一郎それに梅原を入れて9名だった。そして後から浅井忠のところでの兄弟弟子の安井曽太郎、森田恒友、熊谷守一らが参加した。
大原美術館を出て川ベリの喫茶店に入ったら20名程の団体旅行で来ていた中の1人に声をかけられた。「アララ、こんな所で会うなんて」、お互いにビックリ。この人ボクの住んでいる清瀬市でお寿司屋さんをしているお父サン。梅忠寿司、別名気まぐれ寿司。大の旅行好きで好き勝手に店を閉めて旅の人となってしまうのでこの名がついた。梅原忠で梅忠寿司。あれ?こりゃ何と、梅原龍三郎の先生が浅井忠。梅原と忠をとってつけたような人にここで会うなんて。「梅原龍三郎の絵を見て感嘆してきた」と言うと梅忠さん「そうだなありゃ良かった、オッパイが大きかった」だと!
〔写真〕東京・多磨霊園にある梅原龍三郎さんのお墓