2014/06/09
芸名というのは落語家のように先代のものを名乗る人や、新しく生まれたものもある。漫才は大抵自分で勝手につくったものが多い。昔々亭桃太郎やトマトじゃないが上から読んでも下から読んでも同じ三笑亭笑三といった芸名は面白い。漫才でもてんや・わんや。天才・秀才。千夜・一夜。ピーチク・パーチク。ボップ・ホープ。ネオン・サインといった愉快な芸名をつけたりしているが、江戸時代の狂歌の世界もなかなかユニークなペンネームをつけている。大屋裏住。文宝堂文宝。鹿都部真顔。宿屋飯盛。俵船積。朱楽菅公。その妻で節松嫁々。元杢網とその妻智恵内子。思わず笑ってしまうようなネーミングではないか。江戸の人々はこれらの狂歌人が詠む歌に共感し、政治の不信や経済の不安やたまったストレスの解消に役立ったという。
こうした狂歌の世界でもとりわけ有名だったのは太田南畝である。寛延2年(1749)牛込(新宿区)で下級武士の子として生まれた。狂歌だからまともなヒトではないのかというとこれがご幼少の頃からオツム抜群。早くもオイラおさむらいには向かないやと漢学者の内山賀邸に師事。時に15歳であったというからしっかりしてますよ。もっともボクだって15歳でオトコになったんですがね、友人のお姉ちゃんに誘導されて。出世ならぬ出精ものがたりです。
さて、こちら南畝さん、他にも四万赤良とか蜀山人という名も用いていたし、寝惚先生とも言われた。19歳の時にはすでに知り合っていた天下の奇人、平賀源内に序文を書いて貰って「寝惚先生文集」という本を刊行している。これが思わぬ売れ行きで本人も出版社もウハウハ。石文社もしまったと思ったが後の祭り。しかし後に「おもしろお墓百話」という青空うれし先生の本を出して面目を保ったのであります。
この「寝惚」が売れて一躍文壇のスターとなった南畝君。若いから金をバンバン使って吉原などに通って遊びまくった。何の世界も一緒でチョイと有名になるとお旦那さんが付いて自分の金を使うヒマがない。うまい物食って大酒飲んでその上女遊び。糖尿病も出て来た。先輩の唐衣橘洲も同じく美食家で糖尿。エッ、あんたも? 実は私も、トウニョウ相憐れむ!
そろそろ真面目にと、23歳の時に18歳のカミさんを貰った。しかし生まれた子がすぐ亡くなったり病気になったりであまり幸せな家庭ではなかった。そこで又ぞろ女遊び、ついには遊女を身うけして女房に苦労をかけた。狂歌より女に狂ったりしちゃってネ。
世の中は酒と女が敵なり どうか敵にめぐり合いたい
なんて歌っているが、南畝ならずとも男ならみんなそんな気持ちだね。頭光なんて狂歌師もいて、
ほととぎす 自由自在にきく里は 酒屋へ三里豆腐屋へ二里
なんて詠んでるが、今ならすぐ近くにあるコンビニで用が足りるが、のんびりした昔のいい歌ではないか。
そこで阿呆空嬉至先生も一ツ。
馬鹿にして出した 掌の平ずばりっと 易者の図星酔いがちと醒め
蜀山人、太田南畝の墓は文京区白山の本念寺にある。