2014/06/09
ボクの母は現在(平成15年)94才でして。明治42年の生まれですから大正、昭和、平成と4つの世代を生きてきて今でも元気なのであります。自分で歩けるし耳も遠くない。筆を持たせれば書道五段。詩吟も七段。ただし階段はもう勘弁してほしいそうです。
多磨霊園へ15年程前に墓の写真を撮りに行った時オフクロを一緒に連れて行った。ちょうど桜の花が満開で霊園の前の道がズッと甲州街道に出るまで見事な桜並木。「ウワー、きれいだね。今日は有名な方や偉人のお墓を見られたし、こんな見事な桜を見せて貰ったんだから大満足。これでいつ死んでもいいよ」と言ってから益々元気。基本的に嘘つきなのかも。
そのおふくろさんよりもっと凄いのが西園寺公望さん。嘉永2年に生まれてから安政、万延、文久、元治、慶応、明治、大正、昭和と実に8つの年号を生き抜いたのでありますから。そして昭和15年11月24日にお亡くなりになった時の朝日新聞を図書館で読んで、アリャー昔の新聞て格調高すぎて読むのに疲れるわと思いましたよ。チョイとここにその記事をご紹介すると、『元老正二位大勲位公爵西園寺公望氏は二四日午後九時五四分静岡県興津町の別邸坐漁荘で薨去した、享年九十二。公は唯一人の元老重臣中の重臣として隠然政界に重きをなし、齢九十二閑雲野鶴の境涯にありながら政変毎に依然大きく浮かび上がってその光芒赫灼まさに国宝的存在であった』。どうです、死亡じゃなくて薨去ですよ。閑雲野鶴なんて聞いた事あります? ボクもどこかでこれを使ってやろうと思っておりますが。
嘉永2年に従一位徳大寺公純の二男として京都で生まれ、名門西園寺師季の家督を継いだ。安政4年僅か9才で元服昇殿して、右近衛少将に任ぜられたんだって。ショーショーご免なさいだ。普通の子はメンコをしコマをまわしチャンバラごっこだが少将は違うね。日本外史を読み武芸に励み同志と王政復古を唱えて日本の将来に目を向けたんだって。ボクらは近所のねえちゃんのお尻に目を向けたよ。
岩倉具視の力添えもあって戊辰の役には20才前だってえのに権中納言になっちゃって、山陰道撫史とかいって奥羽征討越後国総督として綿の旗をひるがえしてピーヒャラドンドンドン。その後10年程フランスへ留学したりしてたんだからその時パリジェンヌとも何かあったんじゃ?と下司の勘ぐり。
伊藤博文が西園寺サンをいつも連れて歩くという信頼度の厚さ。明治18年第一次伊藤内閣の時に駐墺公使。第二次の時は文相となり、のち外相も兼務したってんだからいかに有能かがわかる。そして第三次伊藤内閣でも文相を務め文教の改革に大きく貢献し、明治33年第四次内閣には枢密院議長に任ぜられ、34年伊藤首相辞表のあとを受けて臨時内閣総理大臣も兼任した。そして39年に第一次西園寺内閣を組織し、44年に桂太郎の後また第二次西園寺内閣を組織したのである。
偉大な政治家で英語、フランス語を話しいつも洗練された身のこなしであった西園寺サンにボクの母は年、イヤ齢だけは勝っているネ。この分では当分薨去もなし。
西園寺公望さんのお墓は東京・多磨霊園にある。