2014/06/09
最近の歌謡ショーは形態が変わって司会者はステージに出ず陰マイクでナレーションをし、たまに出れば主たる仕事はインタビュー。以前は司会者の名文句にのせて前奏が入り、そのいい雰囲気のままに歌うのが常であった。例えば“湯の香いざよう温泉の町に赤い椿の花咲けば伊豆はやさしき恋の里”「湯の町エレジー」ですってな具合に。それが最近は歌手が自分でしゃべって司会者の領域を侵し、本業の唄を極度にへらして楽をしているのだ。
司会の名人はかつては数多くいた。しかし最近の司会者でいいシャベリをする者にまったくと言っていいほど会わない。だが女性の歌手で自らがナレーションをしてこれは凄いと観客をうならせるヒトがいる。三枝万祐という歌手で殊に戦時歌謡や軍歌のナレーションは当時の緊迫した国家情勢を瞬時に理解させ、最大の盛り上がりをみせて歌に導入するという素晴らしいシャベリである。
昭和12年9月にキングレコードから塩まさるさんはデビューした。早大商科を出て千葉鉄道局に勤めていたという異色。鉄道の時の月給が85円で、キングの専属料が350円というのだから名前は塩でも砂糖ぐらい甘い汁だ。そのデビュー曲の「軍国子守唄」は大ヒット。そして翌13年に出した「母子船頭唄」も売れたので歌謡路線のレールを順調に走ったのである。ただ軍国時代であったため、「パーマネントはよしましょう」の標語や、落語、漫才などの芸人も戦地に「わらわし隊」(荒鷲隊)の名で戦地慰問。しかし塩さん歌が売れても贅沢は敵だ!
昭和14年無敵横綱の双葉山が安芸の海によってついに69連勝でストップ。この年キングからテイチクに移籍した塩さんは大ヒット曲「九段の母」を世に出した。平成9年(1997)の日本レコード大賞功労賞を受賞した塩さんは94歳まで現役としてステージに立ち、平成15年、96歳で世を去った。何回も訪れその山間の地を気に入ったご本人の希望通り、信州の浪合村にある堯翁院に永眠。
今年9月にはこの堯翁院の寺澤善周住職やマネージャーを務めた八代幸吉氏の盡力によって戦時歌謡史の公演が企画され、前出の三枝万祐さんの熱演が観られるのだ。この人のナレーションで静かに眠っている塩まさるさんは目を覚ましその魂は会場に飛んでいくに違いない。かくいう私めも今や万祐さんのステージにハマっていて、その日は入場料持って飛んでいくのでありますよ。
【写真】 長野県浪合村の堯翁院にある塩まさるさんのお墓