2014/06/09
どんなに食文化が進んでも、どんなに高級な食事をしても最後はやっぱり香の物が欲しい。白菜の漬物よし、ナス・キュウリもいい。だが大根を漬けたあのタクアンのパリパリ音を立てて食べるのが日本の味なのだ。このタクアンの創始者が高僧沢庵和尚。東京の品川にある東海寺の末寺 〝春雨寺〟 には、デッカイ漬け物石を乗せた墓がある。
但馬(兵庫県)に武士の子として生まれたが10才の時、唱念寺という寺の小僧になった。19才の時に京都に行って紫野の大徳寺に入って名を宗彭とつけられた。この寺は信長や秀吉も信者だったくらいだから有名で、近隣のお金持ちもたくさん集まってきて坊サンも派手々々。まるで貴族のように暮らしている。
これじゃ僧本来の修業は出来んよと宗彭君は飛び出した。我が道を往く! 堺の小さな庵にこもっている地味な名僧古鏡禅師に弟子入りを申し込んだが「駄目です」と断られてしまう。近くに大安寺という寺がありここの文西和尚にお願いして学問をした。暫くして古鏡からおいでと許しが出て入門。慶長9年8月、よくぞ修業したと師から 〝沢庵〟 という道号を与えられたのである。その後は順風満帆、トントン拍子で本山の大徳寺に入寺。百五十三世の住職となった。ところが沢庵、何とたったの3日でヤーメタと最高位の地位を捨てちゃったのだ。3日ですよ、アー三日坊主ってのはこれから始まったんですかねえ。
この後、大徳寺の坊サンが幕府の命で大量にクビにされてしまうという事件が起こった。それを沢庵が不当であると幕府に抗議したため、上ノ山(山形県)へ飛ばされてしまう。流人とは名ばかりで高名なお坊さんが来たと土岐山城守は流人ではなく最高のお客さんとしてもてなした。侍達はこぞって教えを乞い、百姓達は野菜、大根をドンドン持ってきた。その数あまりに多く大根なんざしなびちゃう。そこでこれを塩で漬けたりぬかでつけたりして保存して食べたがこれが抜群に美味い。侍や村人に食わせたらこんなバカウマな物食ったことない。村おこしに大々的にコマーシャルうって宣伝しようかという騒ぎ。そうこうするうちに寛永9年正月に2代秀忠が死去。大赦となって再び江戸へと戻る事になった。峠で村人は大根振って別れを惜しんだ。
江戸では柳生但馬守が首を長くして待っていた。3代将軍家光の剣道指南役となれたのはこの沢庵の口利きがあればこそである。家光も噂に高い沢庵に是非会ってみたいと言い、ある日ある時ご対面。少しトークしただけで家光すっかり沢庵の人柄に惚れてしまった。以後チョイチョイお城へ呼ばれて行く。
家光はいつまでも沢庵に江戸に居て貰いたいと思い、新しい寺を造って住むよう言ったが故郷の但馬へ戻ってひっそり暮らしたいと断った。だが1年ばかり旅に出て戻って来たら品川に5万坪近い土地に立派な寺ができていて、もうここに暮らすより仕様がない。羨ましい話。東海寺と名付けて開山第一世となったのである。家光がこの寺へ時折出かけてくる。その時、例の漬け物を出したらショーグンがバツグンと言って誉めた。「以後これを沢庵漬けと呼べ」。
正保2年2月11日、73才で世を去った。
【写真】東京・品川の東海寺にある漬け物石をのせた沢庵和尚のお墓