水道の恩人 玉川兄弟

2014/06/09

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

人間が生きていく上で絶対欠かせないものは何だとある中学校で先生が聞いたら、ほとんどの子がお金と答えたそうな。なるほど現代の子ならそう答えるのも当たり前だし、決して間違ってはいない。だがその前に水と空気が無かったら生きられまい。空気は自然に吸えるが水はそうはいかない。


だから徳川家康が江戸にお引越しをなさる時、1番心配したのがこの水であった。江戸城に入る前にプランを立てすぐに神田上水を作ったもののこれは規模が小さくて江戸の庶民に行き渡らない。そこにきて不動産屋や土地ブローカーが今買っておかなきゃ損だよ。江戸は今に日本一の繁栄をみるよ…てな事言ってドンドン人口を増やすからたまらない。家康じいさん何とかせねばと老中松平伊豆守(水のカミ)に命じて対策を依頼する。そこで清流の多摩川の水をひくのがいいと決断してこの川の水理に詳しい者を探した。


その結果、西多摩の福生に住む庄屋の福多長兵衛に白羽の矢を立てた。ところが長さん年寄りすぎてワシゃ駄目だと、息子庄右衛門と清右衛門に託した。兄弟は江戸の人々を救うためならとドスンと胸を叩いて引受けた。


時に応永2年(1653)の事で予算の六千両が下げ渡された。多摩川の水を羽村地区から引く事になり、四谷大木戸までの間の工事が始まった。大変な難工事を夜も寝ずの交替で工事。しかし六千両という大金も高井戸辺で資金切れ。幕府にお金下さいと言ったが立替えておけとおっしゃる。玉川兄弟は吉田兄弟やみちのく兄弟と違って歌ったり三味線ひいて稼げない。仕方なく自分達の家をうっぱらって三千両の金をつくったっていうんだから並みの偉さじゃないね。


昭和6年に帝劇でこの兄弟を扱った歌舞伎が上演された。人足が兄弟に金をくれなきゃもう仕事しねえや。サア金を出せとからんでいるところへ通りかかった按摩サン。検校になろうとして貯めた金をこの兄弟に上げてしまう。人生意気に感ずってヤツだ。兄弟はその三百両のお蔭で工事を進める事ができた…とまあこういう筋書きですがね。


とにかく水道は完成して幕府も市民も大喜び。幕府はさらに半蔵門から吹上御苑までの工事を命じ、これも兄弟やり遂げた。キレイな水が吹き上げるのを見て吹上御苑の名がつけられたのである。以後玉川姓を名乗るよう言われたのだ。


その後も幕府は2人に上水の修理や管理を頼んだが、立替えている三千両チョーダイと言うと、一応請求書を送ってくれ後で振り込むから…。管理するも修理するも費用が掛かりますよと言うと幕府もしっかりしている。大名はその禄高に応じて、一般の武士はそれなりに、そして町民たちは家の間口一間に幾らと定めて水料金を取り立てるよう決めた。これが現今の水道料金の始まりである。


浪曲の三代目玉川勝太郎さんの弟子玉川勝美(イエス玉川)サンが舞台で、今皆さんが毎日飲んでいる水は私のご先祖玉川兄弟が苦労して…とシャレで言ったら寄席にたまたま水道局のお偉いさんが居て、楽屋へきて是非ウチでご講演を!


墓は台東区の盛徳寺にある