アトムやレオでお馴染みの手塚治虫センセ巣鴨に眠る

2014/06/09

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

「千と千尋の……」でもわかるように今や日本のアニメは世界に冠たるものである。宮本武蔵の五輪の書や、古事記、純文学と違って漫画の本やアニメの映画は誰でもわかるという最大の利点がある。


手塚センセの作品も数ある中で先ず誰もがファンであったのはあの「鉄腕アトム」に違いない。手塚センセとボクには幾つかの共通点がある。先ず若い女性が大好きだという事。虫プロで社員を採用する時は必ずセンセが立会ったとサ。だから虫プロの女性社員は美人が多かったというお噂。そしてオシャレだったというからそれも似てるじゃん。その上クモが大嫌いという。ボクもクモが嫌いだから蟹も姿そのままで出てくると駄目。酒と煙草をあまりやらぬかわりに1日5食ペロリとこれも似ている。ところがまったく反対というのが、トイレが長くて2時間も座り込んでいる時もあるとか。ウン勢が良くなるんですかねえ。


あーそれから仕事場の冷蔵庫にはなぜかゴキブリホイホイが入っていたという。ゴキブリと聞いただけで気分悪くなるボクはとてもついていけませんねえ。それに聞くところによると「ジャングル大帝」のレオは西武ライオンズのトレードマークとなっているが、あのレオの使用料が約3000万円だなんて口惜しくて羨ましくてハラが立つよ。ああ何でボクは才能無く無駄に人生を送ってるのか。


センセは1928年(昭和3)大阪府豊中に生まれ治と命名された。1938年(昭和13)頃、昆虫採集に夢中になって、平山修次郎著の「原色千種昆蟲図譜」を見てオサムシという虫がいるのを知り手塚治虫というペンネームにした。1946年(昭和21)にデビュー作の四コマ漫画「マアチャンの日記」の連載が「少年国民新聞」(後の毎日小学生新聞関西版)で始まった。そして1951年(昭和26)に「アトム大使」を「少年」に連載。その翌年から脇役であったアトムを主人公にして「鉄腕アトム」で長期連載された。この年に大阪大学を卒業する。1952年(昭和27)に仕事の場を東京に移し四谷に下宿。次の年に豊島区椎名町の「トキワ荘」へ引越した。「リボンの騎士」を少女クラブに連載したのもこの時である。1959年(昭和34)に岡田悦子と結婚し新居を建てた。手塚丸順調に海原に乗り出し1961年(昭和36)医学博士の学位も取得した。そして手塚治虫プロダクション動画部を設立し、翌年12月から㈱虫プロダクションとして正式に発足。1963年(昭和38)に国産初のテレビアニメ「鉄腕アトム」をフジテレビで放送開始し高視聴率をあげた。


1964年(昭和39)にニューヨーク世界博に行った時、ウォルト・ディズニー氏と会って大変感激したという。大分以前にディズニー氏の墓の写真を撮りに行ったが、グランデールにあるフォーレストローン・メモリアルパークの墓地は広大でしかも事務所でもプライバシーの侵害になるからと教えてくれなかった。ここにはハンフリー・ボガードやエロール・フリン、クラーク・ゲーブル等たくさんの俳優達が眠っているのに残念でならない。


数々の賞を受賞した手塚センセ。アトムやレオのように強くたくましくもっともっと長生きして欲しかったのに1989年(平成元年)2月9日胃癌のため死去。享年60才。墓は豊島区西巣鴨の総禅寺に。