戦国武将 新田義貞(1301~1338)の不思議

2014/06/09

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

野球大好き人間のボクは冬になると野球を見れず、イヤーなシーズンとなる。しかし2002年からマスターズリーグができて、かつての名選手達がまたユニフォーム姿を見せてくれて、お蔭で楽しいシーズンとなった。


あの村田兆治がまだ140キロの速球を投げるし、江夏、デストラーデ、中畑、土井、クロマティらも勇姿を見せてくれる。ボクらのチームに加わって助っ人として活躍している小川邦和(元巨人)や怪童と言われた尾崎行雄(元東映)も元気に参加しているからなお応援に行く楽しみが増える。こうした中に元西武ライオンズのエース渡辺久信投手もいて、彼の出身地が群馬県新田郡の新里村。実は今回登場の鎌倉時代の武将、新田義貞はここの出なのである。


義貞の生涯はライバルの足利尊氏とのせり合いに終始したといえる。義貞が敵の本拠鎌倉を攻めるべく猛進撃し、小手指ガ原で北条軍と戦った。西武ライオンズの地元である。久信クンも縁があるネ。小手指、分倍河原そして藤沢と進む。快勝で北条高時は一族と共に東勝寺において自刃し、鎌倉幕府はここに滅亡した。


「稲村ガ崎名将の剣投ぜし古戦場」と唱歌に歌われたあの場面…そう、荒れ狂う波の中に黄金造りの太刀を海へ投げ入れたらアララララ、何とスーッと波がおさまっちゃったなんてマジックみたいなお話は、この鎌倉攻めの時のものである。戦功に対して論功行賞、これで義貞プッツン切れた。足利尊氏に従三位武蔵守という高い地位をあげちゃって、義貞は越後守。つまり会社で言やあ尊氏は取締役常務ぐらいで、義貞は課長サンといった所。


その後も尊氏は征夷大将軍となり専務を飛び越えて副社長。そうこうするうち朝廷は尊良親王を上将軍、義貞を大将軍として尊氏追討の命を下した。任せてチョーダイと栄養ドリンクまとめて飲んで元気に合戦に臨んだ。いったんは敗走したが、すぐ盛り返して尊氏を九州へ追いやった。だがすぐに尊氏は四国、九州の大軍を率いてブリ返してきた。京都で敗れた義貞は福井県の敦賀へ落ち金ヶ崎城へ入った。しかしここも激しく攻められて義貞は転戦に次ぐ転戦。何とか盛り返したが燈明寺の戦いでついに38才の若さで戦死してしまう。墓(首塚)もある。


さて、これからが面白い。京都の嵯峨野に滝口寺というお寺があって、その山門をくぐるとすぐ大きな墓石があり、ここに義貞公首塚とある。


ところが神奈川県の小田原本町の城東高校という学校の近くにも首塚があるのだ。討死の時、家来の宇都宮泰藤がその首級を持って脱出。生国の上州新田を目指してこの地まで来たが、敵には追われ自分も病に侵されて、もはやこれまでとここに首を埋め、自分もハラ切って死んだという説明が石碑に刻まれている。


が、しかし、まだまだあるよ。首を埋めれば首塚、胴を埋めれば胴塚。もひとつ上州(群馬県)新田郡新里村の善昌寺に行ってごらん。そこにも義貞公首塚!


何? 義貞の首が四つあるだと? ヤマタのオロチじゃあるまいし4つも…。待てよ、4つあったらいいね。1つ会社で首切られても、あと3つ就職できらあネ。


写真:神奈川県小田原市内にある新田義貞公の首塚。ここ以外に、福井・京都・群馬と三つの首塚がある