2014/06/09
徳川幕府に旗本八萬騎あり……と格好いい文句ではあるが、同じ旗本にも大名と同じで譜代と外様があって、譜代の方は見識もあり気風堂々であったが、外様の方は妬みや差別にゆがんだ心の持ち主が多かった。不平不満分子が集まってそれぞれ組をつくり、鉄砲組、旅籠組、吉弥組、六方組などと名乗っていた。とても1年B組といったようなかわいいものではなく酒と女と暴力のロクデナシ。
その筆頭が水野十郎左衛門の率いる白柄組で群を抜いていた。真夏のクソ暑い日に厚着して集まり、寒い寒いとグラグラ煮立つ鍋を囲んだり、冬に障子を開け放して裸で氷をかじり冷ソーメンを食らったりしてイキがっていたってんだから事件を起こす三流バカ芸人より始末が悪い。
この悪旗本らに対抗してこれも目立とう組の兄ちゃん達が居てド派手な着物で肩を突っ張らかして町を闊歩していたのが町奴であった。この両者は事あるごとにブツかって喧嘩となる。ある日芝居小屋で両者がモメた。火事と喧嘩は江戸の華! 「始まった始まった、白柄組と町奴の喧嘩だー」。人々は騒ぎが大きい程面白い。近所は勿論隣町からかけつけるわ、風呂屋も空っぽってんだからまるで「君の名は」や現今のヨン様の人気に迫る勢い。
しかし度重なる喧嘩沙汰に当局も黙ってはいない。いい加減にしないと加藤剛か北大路欣也サンに云いつけてやるからと云われて仲直りしようという話になった。しかしこれは水野方の仕掛けで、たった1人で乗り込んだ幡随院長兵衛は死を覚悟。食事の前に一風呂どうぞとすすめられ笑ってサウナへ。大体メシ食おうよと呼ばれて風呂に入るってのも不思議な話だよね。しかしここは素直に入ってくれないと小説にも映画にもならない。長サン湯舟につかって“いい湯だな”って歌い出す。ア、こりゃ長サン違いでいかりや長サンだった。
身に寸鉄も帯びぬ長サン、生まれる時は丸裸。今死ぬ時も丸裸。こりゃ気軽に冥途へ行けるわいとさすが度胸満点の男伊達。風呂場になだれ込んで槍と刀で斬殺してしまう。この後乾分の唐犬権兵衛らが水野らを待ち伏せて耳や鼻をそぎ落としたりして旗本達は大手を振って町を歩けぬようになった。
だが、少し落ち着くと又ぞろご乱行が重なって、長兵衛没後7年たった寛文4年(1664)3月に評定所に呼び出された。反省の色が少しでもあれば死罪を免じるつもりであったが全くその気配なく、むしろふてぶてしく余りにもお上を恐れぬ様子に老中土屋但馬守の命により切腹となった。加賀爪甲斐守、近藤登之助、小笠原刑部等57名の悪旗本が三宅島や八丈島に流された。
東京は中野の上高田にある万昌院の墓にはそれでも寂窓院殿一閑宗心居士という立派な戒名が刻まれている。水野重郎左衛門尉とあるが、十郎でなく重郎になってるが……ああそうか、重罪人だから“重”でいいんだよね。
写真=旗本・水野十郎左衛門のお墓(万昌院、東京都中野区)