歌謡曲にもなった侠客 会津の小鉄(上坂仙吉)

2014/06/09

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

小鉄こと上坂仙吉は生まれ年号も出生地も不祥であるが、実在した人物であることは間違いない。小さい頃、大阪の四天王寺辺りを母親と共にうろついていたらしい。母親に男が出来て、彼は11歳で家出し、どうやって江戸まで行ったのかは分からぬが、いつの間にか博打を覚えて17歳の頃には暴れ者で通っていた。何かの間違いを起して江戸にいられなくなって京都に行って、ここでも喧嘩とバクチに明け暮れていた。会津藩の仲間部屋に出入りし、小柄なのでいつしか小鉄と呼ばれるようになった。


2006年11月の漫才大会(浅草の公会堂)で真打に昇進するビッグ・ボーイズから聞いた話で面白いのがある。彼らの仲間の芸人Aが京都の方で会津小鉄会の新年会で司会を頼まれたんだそうな。ただでさえおっそろしいお兄さん達がズラリと並んでいる席だ。ビビッて上がってオロオロしながらの司会である。


「それではこれより会津コテキ隊の新年会を開催させて頂きます」。それを聞いた若い衆がスッ飛んできて「オイ、俺達は太鼓叩くんか!」とにらまれてチビッてしまった。もうシッコー猶予もなしで平謝り。


小鉄は会津部屋の者とモメ事を起し小指をつめ出入りも禁止となってしまう。大阪に行ったりもしたが、どこへ行っても必ず喧嘩して身体中キズだらけってんだから、果実や家具なら売り物にならない。ところがこの世界ではそのキズこそが金看板になるんだね。顔から全身80ヵ所近いキズで、左手の指は親指と人差し指しかなかったというから、これはもうゴルフは絶対できないね。


慶応3年に殺人の罪で牢屋に入れられ死罪になるところを、翌年、徳川慶喜が大阪から京都に上るというので恩赦になって放免された。


明治16年3月に博徒狩りがあって小鉄も服役し、同18年3月19日に京都洛北で死去したらしいが、これもハッキリどの場所で何歳で亡くなったというデータも残っていない。


ただ歌は鉄砲光三郎が唄っていて、


一 梅の浪花で 産声上げて 度胸千両の 江戸育ち

  何の世間が 笑おうとままよ やくざ渡世に 五尺の体

  かれた京都の かれた京都の 会津部屋

(二は省略)

三 引くに引かれぬ 男の意地で どうせ捨て身の 稲荷山

  咲いた花なら 一度は散るさ のぼる朝日が 草木を染めて

  男小鉄の 男小鉄の 晴れ姿


なお、「こてっちゃん」というCMとは関係ない…当り前だ。墓は京都府左京区黒谷町、西雲院墓地にある。


写真=京都府左京区黒谷町・西雲院墓地にある小鉄こと上坂仙吉の墓。 墓前の銘文「会津小鉄」によると、朝敵の汚名をかけられた会津藩士の遺体は、世人が後難を恐れたため戦場の雨露に晒され無残に放置されたが、小鉄の遺体は配下を動員し死を決して探索して収容、埋葬したとなっている