侠客と十手の二束のワラジ 祐天仙之助(生年不祥~1863)

2014/06/09

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

生まれたのは多分甲府のどこか。昔は良くあったことで、今じゃ考えられない出生。これじゃ今時パスポートも取れなきゃ、どこにも就職できませんよ。幼少の頃、行蔵院という寺に預けられて、その時、祐天の名を付けられたらしい。吉松が本名で祐天吉松。


これが真面目に坊さんの修行せず、ストーカーからのぞきに花札トバク…。行く道は自然にヤクザ稼業だ。大親分竹居吃安の用心棒で元は旗本の用心棒であったという桑原雷助を殺してしまう。だが相手は浪人でヤクザの用心棒。祐天は仮にも関東取締役の御用をつとめる十手持ち、お咎めもなしというんだから雷助サン、殺され損だ。


祐天は勝沼に住み、子分と縄張りを持って、吃安一家とにらみ合った。嘉永3年、博徒狩りで大勢が伊豆の新島に島流しになり、吃安もその中にいた。しかし、吃安が島を抜け出して戻ってきたので、SOSのデンポー打って江戸屋虎五郎や高萩万次郎といった当時売り出しの親分衆の応援を得て吃安を捕らえた。


この頃、幕府は急雲激しく、将軍徳川家茂の身辺警護のため、浪人や地方の郷士を集めたが、それだけでは足りず、祐天のような博徒にまで声が掛かったのである。どうだ浪士隊(新徴組)に入らんかと清河八郎に言われ、俺もサムライの真似がしてみたいと子分を40人ほど連れて参加した。


こんなのがいい隊の訳がない。山岡鉄舟、松岡万が先頭に立って京都に送り込んだものの、清河八郎の自分勝手な言動でお前らもいらないとお払い箱。祐天どころかフーテンの吉松になってしまう。


この時に同じ仲間だった近藤勇や土方歳三らは、京都に残って新撰組をつくって有名人になったのである。そして祐天たちは江戸で改めて新徴組に入る。山本仙之助と名乗って一応武士気取り。この祐天を新徴組に推薦してくれたのが、明治の女流作家で今や5000円札の顔になっている樋口一葉の両親の面倒も見てくれたという、昌平坂学問所につとめる松下晩菘であった。


だが、この新徴組に入るのをもう少し慎重に考えれば長生きできたかも…。というのは、大村達尾という男がこの組に入っていて、これが18年前に山梨の鰍沢で祐天に殺された桑原雷助の遺児であった。祐天が板橋の女郎屋へ行っての帰りに、親の仇!と斬りつけた。祐天はそのまま昇天した。生まれた日は分からないが、死んだ日は1863年(文久3)10月15日の夜とハッキリしている。


なお、東横線の祐天寺とこの祐天とは全く関係ない。お墓は東京・墨田区大平の報恩寺に。他には武将太田道灌、女優山岡久乃のお墓もある。


写真=祐天仙之助を主人公にした映画が『博徒ざむらい』(1964年・大映、監督・森一生)で、この時、市川雷蔵が祐天を演じている。お墓は東京・墨田区の報恩寺にある