小林多喜二巡礼 ~“青春18きっぷ”で大阪から小樽のお墓へ
表現の自由がなかった時代に、正義を訴えペンに殉じた多喜二の墓。その勇気に敬服せずにいられない
国内で訪れた最北端の墓は小樽に眠る作家、小林多喜二。今から10年ほど前、どうしても会いたくて短い夏期休暇を利用し墓参に向かった。
遠方への巡礼で重宝するのがJRの“青春18きっぷ”。普通&快速列車が1日乗り放題になるこの切符は五枚綴りで1万1,500円。1枚当たり2,300円という値段で始発から全国に移動できる。しかも日付をまたぐ快速列車は終点まで乗ってもOKという特例があるため、うまく乗り継げば東北・福島駅から九州・博多駅まで1枚で行くことも可能だ。復路は小樽と舞鶴を結ぶフェリー(所用20時間8,200円)を使えば、船賃&18きっぷ3枚分、実質約1万5,000円で大阪~小樽を往復できる。
2000年8月、早朝に大阪を出た僕は、仙台駅のロビーで一泊した後、平泉(岩手)で武蔵坊弁慶、青森で棟方志功や沢田教一に墓参し、午後11時に函館へ到着した。
30分後に札幌行きの夜行快速ミッドナイト号が出るので、その間に軽くうどんでも食べようと考えていたら、函館駅で扉が開くやいなや、大勢の人が弾けるようにドアから飛び出した。その瞬間、長年の巡礼で培った危険予知レーダーが反応。
“こりゃ、何かヤバいぞ”
ミッドナイト号は別ホームから出るらしく、約100人が韋駄天の如く階段を駆け上った。当時、僕は33歳。周囲はほぼ全員が20歳前後の若者。彼らは体力こそ勝っていたが、旅に不慣れなのか背後の荷物がやたらデカい。こちらは着替え用のTシャツが一枚、寝るための新聞紙、文庫本、カメラ、地図だけ。シュッと追い抜き、かろうじて先頭集団に入れた。
だが、乗り換え列車を見て僕は絶句。たったの3両編成! しかも2両が指定席で、自由席は何と1両のみ! そして自由席はすでに全部埋まっていた!
驚いてる間に通路を若人たちにとられ、僕はトイレの前に立つ5人目の人間となった。札幌まで七時間。人生で最も長い夜だった。午前6時半に札幌に着き、8時に南小樽駅着。ようやく北海道の西岸にたどり着く。
小樽港を出るフェリーは2時間後の午前10時。これに乗らねば仕事に間に合わない。急いで多喜二が眠る奥沢共同墓地へ。
山の斜面に沿った大きな墓地で、“小林”という名の墓が複数あるため焦りに焦った。管理人事務所がなく、付近の民家を片っ端から尋ね回る。略図を書いてもらい、ついに墓前にたどり着いた。念のために墓石の裏側を確認して胸を打たれた。
建立者は多喜二自身、日付は『蟹工船』発表の翌年。労働問題を通して社会の矛盾を告発した『蟹工船』は発禁処分になっている。彼は〝ペンで死ぬかも知れない〟と覚悟を決めていたのか。
墓の建立から3週間後に思想犯として逮捕、起訴され、3年後に特高警察の手で命を絶たれる。まだ29歳の若さだった。
その勇気を前に、合掌する手に力がこもった。
深夜の道内をひた走るミッドナイト号。連結部で寝ている人はカーブの度に体が“への字”になっていた
※『月刊石材』2011年3月号より転載
カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)
1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
(
http://kajipon.com
) は累計6,500万件のアクセス数。
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社
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