両国回向院の墓。手前の白い墓石が“お前立ち”。次から次へと墓参者がやってきた
かつてジェームス・ディーンの墓を訪れたとき、そのゴツゴツした墓石を指差して、地元の人から「ファンが記念に削っていくんだよ」と説明され、“墓を削る文化があるのか”と驚いたもの。
その後、国内の墓を本格的に巡り始め、日本でも秀吉、坂田三吉、石川五右衛門、森の石松の墓のように、〝お守り〟にするため削られる墓が少なくないことを知った。中でも最も有名なのが義賊と言われる鼠小僧次郎吉。鼠小僧は長く逮捕されなかったので、その強運にあやかろうと昔から博打好きが削って帰るのだとか。どこにでも「スルリと入る」ことから、近年は受験生が削ることも多いという。
鼠小僧の本名は町田次郎吉。鼠のように天井裏から侵入するため“鼠小僧”の異名がついた。彼が他のコソ泥と違ったのは、庶民の長屋には入らず、大名・旗本など権力者の武家屋敷のみを狙う大胆さだった。武家の場合、金があるのはもちろん、奉行所に被害届けを出せば「盗賊に入られた情けない武士」として面子が潰れるので、泣き寝入りせざるを得ないと言う算段もあった。
32回の盗みを行なった時点で一度捕まり“入れ墨刑"を受ける。しかし改心することなく、1832年に37歳で二度目のお縄。自白によると、保釈後の10年間でさらに71ヵ所、90回に及ぶ盗みを重ねていた。
次郎吉が生涯に侵入した屋敷は99軒、被害総額は約3,120両(約3億円)。最期は市中引き回しのうえ小塚原刑場で磔にされ、首が晒された。その後、頭部は墨田区両国の回向院に、胴体は荒川区南千住の回向院(同名)に埋葬された。
前述したように墓石を削る墓参者が絶えないため、両寺とも対抗策がとられてきた。
両国の方は、本墓の手前にニセモノの墓「お前立ち」を置く“囮作戦”を実施。墓前で立札が「こちらの“お前立ち”をお削り下さい」と促しており、丁寧に削り用の石まで用意されている。どんどん小さくなるので、3~5年で建て替えるそうだ。
一方、南千住の墓は2000年の初巡礼時、金網で囲って防御するという古典的な手法を講じていた。ところが2004年に再訪すると網が消えていた!
不思議に思ってお寺に問い合わせると、一般市民から「罪人でも死ねば魂は浄化され仏になっているはず。網がかかっていては、死んでも牢屋に入っているようで可哀想だ」と声があがり、住職が取り払ったとのこと。
後に墓所は大きく変化し、2011年現在は「安政の大獄」で散った吉田松陰らと一緒に、特別区画・史跡コーナーに改葬されている。次郎吉は若い志士たちや儒学者と眠っている不思議を感じているだろう。
戒名は『教覚速善居士』。“教覚”は侠客の洒落かな? 「教えを善く速く覚える」とも読めるので、これも受験生が来る理由。戒名を付けたお坊さんは、ユーモアがありますね。
かつての南千住回向院の墓(手前が鼠小僧))。2000年頃まで金網で防御されていた。背後に寄りかかる墓石は先代のもの
※『月刊石材』2011年4月号より転載
カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)
1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
(http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社