農民として生まれ武士として散る ~新選組局長・近藤勇
竜源寺(三鷹市)の墓。約200メートル西方に生家跡や産湯の井戸、天然理心流の道場がある
2011年春、NHKで司馬遼太郎の『新選組血風録』がドラマ化され、幕末ファンの間で大きな話題になった。昨年の大河ドラマ『龍馬伝』といい、維新という激変する時代のうねりの中で、命の炎を燃やした若者たちを描いた作品は、時を超えて見る者の心を熱くする。
近藤勇は現・調布市の農家の三男坊に生まれた。成長して剣術に才能を発揮し、天然理心流宗家・近藤周助の養子になる。将軍上洛の警護をきっかけに幕府の治安部隊・新選組を率いることになり、倒幕を目指す志士たちを次々と捕縛し、抵抗する者は斬り捨てた。池田屋事件では20余名の志士にわずか4名で立ち向かい、9名を討ち取る大手柄をあげる。
近藤は幕臣の地位を与えられ、農民出身でありながら旗本まで登り詰めた。志士の恨みを一身に集めた近藤は、新政府軍に捕縛された後、切腹を許されず罪人として斬首となる。首は京都に運ばれ三条河原に晒された。
伝えられる墓所は全国に6ヵ所。
(1)竜源寺(東京都三鷹市)
養子の勇五郎が刑場から亡骸(胴体)をもらいうけ、生家に近い近藤家の菩提寺・竜源寺に葬ったという。墓前にはたくさんの千羽鶴がある。歴史上の人物では、近藤、龍馬、沖田総司の墓所でしか千羽鶴を見たことがない。近藤の墓前には約25冊ものメッセージ・ノートがあった。
(2)新選組墓所(東京都板橋区)
処刑場跡に新選組二番隊・永倉新八が建立。胴塚。
(3)天寧寺(福島県会津若松市)
寺の裏山に会津藩が建てた墓がある。土方らが会津に来た時にこの墓に参詣しており、土方が遺体の一部を葬ったとも。今は近藤と土方の供養塔が並んでいる。後世の優しい人が“2人を並べてあげよう”と提案したのだろう。
(4)壬生塚(京都市中京区)
新選組の最初の屯所、八木邸のそば。遺髪が納められている。
(5)法蔵寺(愛知県岡崎市)
なぜ近藤の墓が愛知県に? 寺伝には次のように伝えられている。
『板橋での処刑後、近親者の依頼を受けた者が、夜中に体を掘り出し竜源寺に埋葬した。首は塩漬けとなり京に送られ、三条大橋の西側に晒された。三晩目に同志が密かに持ち出し、近藤が生前敬慕していた裏寺町の空義天大和尚に埋葬を頼もうとしたところ、和尚は半年前に三河国法蔵寺に転任していた。法蔵寺は大木が生い茂る山中にあり、隠れ墓を作るのに適していた。かくして埋葬後、世間に悟られぬよう、石碑を土で覆い無縁仏のようにした』。
具体的で説得力がある。
(6)高国寺(山形県米沢市)
米沢で織物業を営む従兄弟の近藤金太郎が勇の首を盗み出し、赤羽近くの河原で焼いた後、紙に包んで米沢に持ち帰り、高国寺の近藤家墓地に埋葬したという。
これらの墓は、各所に分骨されたものかも知れない。信念を貫き散った男の墓前には今もなお多くの人が訪れている。
※2019年追記。現在、研究者の間で(3)の会津若松市・天寧寺が最有力候補になっています。
板橋の墓。近藤と土方、両者の名が刻まれた3.6メートルもの巨大な供養塔だ。駅前にあり墓参しやすい
※『月刊石材』2011年9月号より転載
カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)
1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
(
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企画スポンサー:大阪石材工業株式会社
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