チャップリン ~ヒトラーと戦った喜劇役者
右がチャップリン、左が八人の子をもうけたウーナ夫人
“喜劇王”チャップリンの墓は故郷の英国でも、成功を収めた米国でもなく、スイスの片田舎ヴヴェイにある。それは彼の生きる姿勢、信念の結果だ。
パントマイムの劇団員を経て25歳で銀幕デビューを飾り、トレードマークとなる山高帽&ステッキ、だぶだぶのズボンにドタ靴という姿を確立。監督、主演、製作、脚本をこなし、映画音楽まで作曲した。完全主義者で、『街の灯』の撮影では花売り娘との約3分間の出会いのシーンに342回もNGを出した。
作風は初期のドタバタ喜劇から、次第に人間愛をうたったヒューマニズム路線に変化していく。社会問題にも斬り込み、『モダン・タイムス』では羊の群れと労働者を重ね合わせ、資本主義の世で家畜化した民衆を鋭く描いた。
欧州で台頭していたファシズムにいち早く危機感を抱き、第二次世界大戦開戦直後に『独裁者』の撮影を開始。同作でヒトラーとユダヤ人の床屋という、抑圧者と被抑圧者の一人二役をこなした。
チャップリンはヒトラーと同年同月生まれで、黒髪、小柄、チョビ髭という共通点があった。劇中ではユダヤ人差別の深刻さが克明に描写され、後のアウシュビッツ強制収容所の建設を予見。撮影当時、多くの米国人は戦争を遠くの出来事としてとらえ(真珠湾攻撃は2年後)、ナチスが反共・白人優位主義であったことから、KKKやドイツ系移民を中心にヒトラー支持者も少なくなかった。製作中止を求める様々な妨害が加えられ、「何度も脅迫を受けている。撮影を続けると殺されるかもしれない」と当時語っている。
ヒロインの名前は10年前に他界した母と同じハンナ。天国の母親に向かって、命を賭して完成を誓う決意表明にも思える。そのような状況で反ファシズム映画を作った彼の勇気、時代を見通す力に圧倒される。大戦後は『殺人狂時代』の中で、死刑台に向かう主人公に「一人を殺せば犯罪者に、100万人を殺せば英雄になる」と戦争の矛盾を語らせた。
東西冷戦が激化するとハリウッドに赤狩りの嵐が吹き荒れ、法務長官から事実上の国外追放命令を受け、彼は自分の意思を訴えるように“中立国”スイスに移住した。
それから20年後、ハリウッドは謝罪の意味を込めてアカデミー賞特別賞を授与し、授賞式で彼に送られたスタンディングオベーションはオスカー史上最長の約五分間にわたった。翌々年のクリスマスの朝、彼は88年間の波乱に富んだ人生を終えた。
僕が初めてチャップリンを墓参した際、バスの運転手の勘違いで違う墓地で降ろされ、地元の人に尋ねながら墓地を探し大変だった。ある民家で庭いじりをしている女性に訊いたところ、彼女は「ここだ」と地面を差した。何のことかと思いきや、彼女はチャップリンの孫で僕は知らずに敷地に入っていたのだ!
その後、墓地では時が経つのも忘れて、映画の感想や感謝の言葉をチャップリンに伝えた。
ハリウッドに眠る母ハンナ。『独裁者』のヒロインの名の由来だ
※『月刊石材』2012年4月号より転載
カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)
1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
(
http://kajipon.com
) は累計6,500万件のアクセス数。
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社
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