黒澤明 ~銀幕を通して世界との架け橋に

黒澤明
黒澤家の墓。鎌倉は小津安二郎、木下恵介、田中絹代、笠智衆など映画人の墓が多い

かつて、井上ひさし氏が「オーストラリアに滞在していた時に、現地で黒澤監督特集が催され、そのおかげで日本人観まで好転した。パスポートだけでなく芸術の力で私達がいかに守られていることか」と語っていた。外交問題で感情的な言葉が飛び交う昨今、芸術は国境を越えて心の共有という素晴らしい体験をもたらす人類の宝であり、本当に大切にしたいもの。

“世界のクロサワ”は明治末期の1910年に東京で生まれた。当初は画家を志し、美術学校を受験するが不合格。アルバイトをしながら絵筆を握り続け、無名の画家として悶々としていた。

26歳の時、新聞の「助監督募集」という広告が人生を変える。競争率百倍の狭き門を突破して現東宝に入社し、7年後に『姿三四郎』で監督デビューを果たす。映画は大ヒットし、以降、55歳で発表した『赤ひげ』まで毎年のように作品を撮り続けた。

黒澤は他の映画のオーディションに落ちたデビュー1年目の三船敏郎を大抜擢し、観客はその圧倒的な存在感に度肝を抜かれた。「三船君は特別の才能の持主で代わる人がいないんだ」。

ヴェネチア映画祭で金獅子賞(グランプリ)に輝いた『羅生門』(1950)では、雨の土砂降り感を出すために、墨汁入りの雨を消防車数台で降らせた。同作はアカデミー賞特別賞(現・外国語映画賞)も獲得し、戦争の爪痕がまだ各地に残る中、日本映画が世界から評価されたことが、日本人の沈んだ気持ちを明るくさせた。

そして1954年、世界映画史に燦然と輝く『七人の侍』が完成!

「ステーキの上にウナギの蒲焼きを載せ、カレーをぶち込んだような、もう勘弁、腹いっぱいという映画を作ろうと思った」

集団を映しながらも一人ひとりの生命の重さを描きあげた同作は、世界の映画人の心を鷲掴みにし、海外では『荒野の七人』など〝七人もの〟が数多く制作された。スピルバーグいわく「映画の撮影前や制作に行き詰まった時には、もの作りの原点に立ち戻るために必ずこの映画を見る」。

だが、黒澤は50代後半から映画会社に干されてしまう

“完全主義”の結果、制作費が毎回のように予算オーバーするためだ。追いつめられ浴槽でカミソリ自殺をはかり、傷は首筋5ヵ所をはじめ21ヵ所に達した。そんな黒澤を助けてくれたのはフランス政府やハリウッドの映画人たち。海外の援助で『影武者』『乱』が完成した。1997年に三船が世を去り、後を追うように翌年脳卒中のため永眠。享年88。

墓所は鎌倉市の安養院。他界の1年後に墓参したところ、監督の左隣が空いていたので、大ファンの僕は「檀家になれば監督の横に眠れますか」とご住職に思い切って尋ねてみた。返事は「あまりに希望者が多いので、皆が平等になるよう隣りはお墓にしません」。

10年後に再訪すると隣りはブロック塀で囲まれ、本当に物置(卒塔婆置き)になっており、ご住職の英断に感嘆した。


黒澤明
三船敏郎の墓(川崎市、春秋苑)。黒澤とのタッグは計16本にも及んだ


※『月刊石材』2012年9月号より転載


墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん












カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。

巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。




大阪石材工業 
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社