絵画史上、初めて農民を主役に描いた画家 ~ジャン=フランソワ・ミレー
白い十字架が立つミレーの墓(右側)。左の“岩墓”は盟友ルソーのものだ
「人間には分からないが、森の樹木たちは互いに何かを会話している」(ミレー)。
日本は科学技術立国である一方、同時に農業国でもあり、農民画家ミレーが大人気だ。岩波書店は戦前から『種蒔く人』をシンボルマークに選んでいる。だが、その人生が貧困との戦いだったことはあまり知られていない。
ミレーは1814年、ノルマンディーの寒村に農家の長男として生まれた。父に画才を認められて19歳から画塾に通う。父の死後、農家を継ごうとしたが、祖母が画家の道を歩むよう説得し、パリに出て修業を続けた。
26歳で作品が初めてサロン(官展)に入選。この成功は故郷でも評判になり、妻を迎えて未来に期待を膨らませたが、その後は3年連続で落選し、妻も肺結核で先立つ。翌年再婚し、パン代を稼ぐため自らが軽蔑していた裸婦画を何枚も描き続ける。新しいカンバスを買うお金さえ底をつき、前年の落選作品の上に描いた宗教画が7年ぶりにサロンに入選した。
1848年、2月革命が勃発したこの年、ミレーに転機が訪れる。街頭に飾られていた自分の絵を、パリ市民が「ミレーは女の裸を描くしか能の無いくだらない画家だ」と噂していたのだ。
衝撃を受けたミレーは、妻に「もう裸体画はやめだ。もっと貧しくなるだろうが、僕は農民たちと生活しながら自分自身の芸術を生み出す」と宣言。妻もミレーの画業を支えた。移住したバルビゾン村はフォンテーヌブローの森に接しており、村民の〝3割〟が画家という芸術家村。ミレーは午前中に畑を耕し、その後に絵筆を握った。
そして1850年(36歳)、農民を主役にした記念すべき作品『種蒔く人』が誕生する。当時は働く農民を中心にした絵を誰も描いていなかった。『種蒔く人』の表情がぼやけているのは、特定の人を描くのではなく、大地で働くすべての人に当てはまるように描いたからだ。農家の息子にとって畑仕事は聖なる労働だ。
だが、農民画は売れなかった。都会の人々は「美しい風景」が描かれた田舎の絵を求めており、農作業の辛さを描いたリアルな農民画は〝辛気臭い〟と敬遠された。翌年、祖母が死去したが交通費がなく葬儀に立ち会えなかった。
40代後半になってようやく『落穂拾い』『晩鐘』などが評価され始め、やがて政府から装飾画の注文を受けたが、その頃は病魔に犯されており、1875年、家族に見守られながら生涯を閉じた。享年60。
ミレーの墓があるバルビゾンは路線バスがないためタクシーを使うことになる。〝誰かと割り勘で行けないか〟と考えネットで呼びかけたところ、パリ留学中の学生さんが応えてくれ、2人で墓参を敢行した。
ミレーの墓は親友の画家T・ルソーと並んでいて感動的だ。ミレーの貧困時代、2歳年上のルソーは名前を変えてミレーの絵をこっそり買うことで、ミレーのプライドを傷つけぬよう援助していた。一方、ルソーは〝落選王〟の異名を持つほどサロンで落ち続け、ルソー没後はミレーがルソー家の面倒をみてあげていた。
友人同士の墓が並んでいるのを見るのは墓巡礼で胸が熱くなる瞬間だ。
大切に保存されているバルビゾン村のミレーの家。愛用のパレットが絵の具を乗せたまま展示されている
※『月刊石材』2012年10月号より転載
カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)
1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。
巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
(
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企画スポンサー:大阪石材工業株式会社
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