墓石はシンプルで特徴がなく何時間も探した。付近にはエディット・ピアフの墓がある
偉大な先人たちの墓巡礼をしているとき、男女が仲良くひとつの墓に眠っていると、ほっこりした穏やかな気持ちになる。でも、それは天寿をまっとうした場合。若い2人だと胸が詰まり、すぐに言葉が出て来ない。短命の画家モディリアニと恋人ジャンヌは、まさにそのような墓だった。
モディリアニは、1884年にイタリアで生まれた。病弱で10代前半に学業を断念。母は子にデッサンの才能を見出し、画塾に通わせた。22歳の時に画家として勝負するためパリに出る。
活動の拠点とした安アパート“洗濯船”には、ピカソ、ジャン・コクトー、詩人アポリネールなど前衛芸術家が集まり、モディリアニは大いに刺激を受けた。ボヘミアン的生活に憧れ、酒場や娼館に入り浸っていく。
自分の画風を模索していた時に、物体の形を表現する魅力に取り憑かれ、彫刻の世界に没入していった。
貧しさゆえ、彫刻用の石は路面から剥がしたり、夜間に建築現場から手に入れた。だが彫刻の粉塵が持病の肺結核を悪化させたことから、彫刻家への道を断念せざるを得なくなる。
失意に沈むモディリアニに、友人たちがもう一度絵筆を握ることを勧めた。彼はカンバスの上で人物像を彫るように輪郭線を引いた。そして卵形の顔、長い首、瞳のないアーモンド型の目、細長いプロポーションの人物画という、独自の作風を確立した。
1917年(33歳)、美術学校で19歳の女学生ジャンヌ・エビュテルヌと知り合う。ジャンヌは内気で物静かだったが、彼を熱愛し家族の反対を押し切って同棲した。以降、他界するまで彼女をモデルに多数の肖像画を描く。初めての個展は警察が裸婦画を猥褻物と判断して介入し、初日に打ち切られた。
貧困と薬物依存、そして肺結核の咳を抑えるための大量飲酒という荒廃した生活が続き、帰宅しないモディリアニを身重のジャンヌが一晩中パリを探し回ることもあった。その頃、ロンドンの画廊では彼の絵に展覧会の最高値1000フランがついたが、既に肉体はボロボロだった。
1920年1月24日、結核性脳膜炎で夭折。享年35歳。悲しみで錯乱するジャンヌを両親が心配して実家へ連れ帰ったが、翌朝5時に妊娠9ヵ月の子を宿したまま、アパートの5階から飛び降りた。まだ21歳という若さだった。
ロンドンの画廊で、展覧会の最高値1000フランがついたが、既にモディリアニの肉体はボロボロだった。1920年1月24日、結核性脳膜炎で夭折。享年35歳。
悲しみで錯乱するジャンヌを両親が心配して実家へ連れ帰ったが、翌朝5時に妊娠9ヵ月の子を宿したまま、アパートの5階から飛び降りた。まだ21歳という若さだった。
墓はパリのペール・ラシェーズ墓地。ジャンヌの墓碑銘は「究極の自己犠牲をも辞さぬほどに献身的な伴侶であった」、モディリアニの墓碑銘は「彼は成功の暁に世を去った」。
生涯に描いた肖像画は350点。特徴的なモディリアニの作品を、他の画家と間違えることはない。この“唯一無二”という屹立した個性こそ芸術家にとって最重要であり、それを確立したという意味でも墓碑銘の“成功”は間違っていない。
モディリアニがジャンヌの肖像画を大量に描いたので、僕らはいろんな美術館で彼女に会える。彼女は20歳前後のまま、ずっと生き続けているような錯覚さえ感じる。
墓石の上に地下鉄の切符が無数にあった。「これを使って会いにきて」という意味らしい。パリの墓でよく見かける
※『月刊石材』2013年2月号より転載
カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)
1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』(http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。
企画スポンサー:大阪石材工業株式会社