外交官としての栄達より目の前の人命を優先。“命のビザ”で生き残った難民たちの子孫は25万人に達する。墓所は29区5側
「政府の命令に背き、良心に従った杉原さんがいなかったら、私たちの誰も存在しなかった。私たちが歩み続けた暗い道の中で、杉原さんの星だけが輝いていた」(杉原に助けられたユダヤ女性)戦後、半世紀を経て偉業が明らかになった外交官・杉原千畝(ちうね)は1900年に岐阜で生まれた。苦学して語学力を磨き、24歳で外務省に採用され、満州や北欧で勤務した後、39歳からリトアニアの首都カウナスの領事館に赴任した。この頃、ナチスはユダヤ人迫害を激化させており、1940年にはアウシュヴィッツ強制収容所が完成していた。西方からナチスが迫り、リトアニアのユダヤ人の逃げ道は、シベリア鉄道で極東に向かうルートしか残されていなかった。杉原手記「忘れもしない1940年7月18日の早朝の事であった」「ヨレヨレの服装をした老若男女、いろいろの人相の人々が、ザッと百人も公邸の鉄柵に寄り掛かって、こちらに向かって何かを訴えている光景が眼に映った」ユダヤ人難民の切迫した状況をすぐに理解した杉原は、外務省へ「通過ビザを出してもよいか」と電報を打った。だが、返電は「行先国の入国手続を完了し、旅費及び日本滞在費等の携帯金を有する者にのみ発給せよ」という非現実的なものだった。外務省はユダヤ人保護によって同盟国ドイツが気を悪くすることを恐れたのである。杉原は「人道上、どうしても拒否できない」と、命令違反の処罰を覚悟した上で日本通過ビザを大量発給し始めた。本省から独断行為を非難する電信が入っても、約一ヵ月半の間、万年筆が折れるほど多量のビザを手書きし、腕は筋肉痛で腫れ上がった。杉原の命令違反は「カウナス事件」という名前で、東京の陸軍中央まで伝えられていた。 領事館退去、ベルリンへの異動命令が通達されると、領事館を閉鎖してホテルに移り、なおも仮通行書を発行した。カウナス駅からベルリンに旅立つ際も、車窓から手渡しされたビザを書き続けた。汽車が動き出すと杉原は頭を下げ、「許して下さい、私にはもう書けない。みなさんのご無事を祈っています」と謝った。ホームからは「私たちはあなたを忘れません!」と叫び声があがり、人々は泣きながら列車と並び走った。杉原が発行したビザの枚数は、記録が残るものだけで「2,139枚」にのぼる。ビザは1家族につき、1枚で良かったことから、家族の人数を考慮すると約6,000人の国外脱出を助けたと考えられている。その後、リトアニアではユダヤ人20万8,000人のうち、9割以上の19万5,000人が殺害された。帰国した杉原を待っていたのは、独断行為を咎めた事実上の解雇通知だった。杉原の死後、人生が映画化されるなどして日本政府が公式に謝罪し名誉回復を行ったのは2000年。他界から14年が経っていた。墓所は鎌倉霊園。命令違反した杉原を“国賊”と呼ぶ人が墓を荒らさぬよう、夫人が近年まで非公開にしていた。「私のしたことは、外交官としては間違っていたかもしれない。しかし、私には頼ってきた何千もの人を見殺しにすることはできなかった」
鎌倉霊園は川端康成、山本周五郎、萬屋錦之介、秋山真之、多くの著名人が眠っている超巨大霊園
※『月刊石材』2013年7月号より転載
カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)
1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』(http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。
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