明智光秀~あえて謀反者となり「天魔」を討つ

明智光秀
大津市西教寺の墓。比叡山の麓に建つ明智の菩提寺に一族の墓が並ぶ

2014年6月、“本能寺の変”直前に四国の覇者・長宗我部元親が明智光秀の重臣・斎藤利三に送った手紙が岡山で見つかったと報道された。

元親の正室は利三の妹。その内容から、信長と元親の板挟みになった光秀の苦悩が浮き彫りに。手紙には、元親が信長に屈服する意志が書かれていた。だが信長は四国征討軍の派遣を決定。光秀の胸には「元親は恭順の意を示したのになぜ派兵するのか」という思いがあっただろう。

光秀が本能寺を襲ったのは、四国征討軍の出発予定日。襲撃部隊を斉藤利三が指揮しており、信長の死によって四国派兵は中止となった。この件は、間違いなく謀反の理由のひとつ。

光秀は荒くれ者が多い織田家臣団にあって、和歌や茶の湯を愛した風流人。斎藤道三や越前朝倉氏に仕えた後、39歳で信長の家臣となり、朝廷との交渉役となって織田家を支えた。武人としては鉄砲の名手であり、通常の倍ほど遠い的に百発連続で命中させ、うち68発が中心を撃ち抜いた。

信長は光秀を高く評価して滋賀郡と築城資金を与え、光秀は坂本城を完成させ、家臣団で最初に一国一城の主となった。秀吉や柴田勝家など古参の家臣がいるなか、織田に来て僅か4年で出世頭となる。この評価は10年後も変わらず、信長は手紙に「丹波での明智光秀の働きは目覚しく天下に面目を施し」と手放しで称賛している。

だが、信玄が「天魔信長」と糾弾した比叡山の焼討ち以降、残虐度を増していく主君に光秀は戸惑う。伊勢長島で、信長は一向宗徒2万人を柵で囲み、老人、女性、幼児も関係なく、全員を焼き殺した。土地に子孫を残さぬこの作戦は、「根切り」と呼ばれた。

北陸では、住民全員を一揆衆と見なし4万人を殺害。武田を滅ぼした後、信長は武田の菩提寺が信玄の子・勝頼を供養したことに激高して放火し、同寺の国師もろとも僧侶150余人を焼き殺した。“国師”は天皇が認定した、天皇の師。国師を殺すことは、天皇の権威を全く認めていないということ。

1582年、信長は『神格化宣言』を発布。安土城内に巨大な石を安置し、「この石を私と思って拝め」と諸大名や領民に強制した。信長が命じればただの石が神になるのだ。また、信長を本尊とする寺を建立して信長像を置き、「神仏を拝まず信長を拝め」と朝廷に命じた。これは目に見える形で、自身が天皇の上位にあると宣言したに等しい。信長が官位を返上したことも朝廷のメンツを潰した。

公家は光秀に信長抹殺を期待するようになる。天皇の側近クラスが集まった秘密の連歌会で、光秀は発句をこう詠んだ。『時は今 雨が下しる 五月哉』=“時”は明智の本家、土岐氏。“雨”は天。つまり「土岐氏が今こそ天下を取る5月なり」。

これに出席者の歌が続く。僧侶最高位の西ノ坊行祐『水上まさる、庭の松山』=“皆の神(朝廷)”が活躍を待つ。連歌界の第一人者・里村紹巴『花落つる、流れの末をせきとめて』=“花”は栄華を誇る信長、花が落ちるよう勢いを止めて。旧知の大善院宥源『風に霞を、吹きおくる暮』=信長が作った暗闇(霞)を、あなたの風で吹き払ってくれ。

この5日後、光秀は「敵は本能寺にあり」と謀反を起こし主君を討つ。朝廷は喜び、光秀に祝儀を贈った。その後、光秀は秀吉に敗れ、土民の竹槍が致命傷となる。

享年54歳。33年後、斎藤利三の娘・春日局が支えた徳川が豊臣を滅亡させ、明智方の恨みは晴らされた。善政により領民に慕われた光秀の墓は六ヵ所。いずれも人々が大切に守っている。

明智光秀
京都市東山区の首塚。遺言「知恩院に葬ってくれ」を受けたもの。胴塚は伏見区にある

※『月刊石材』2014年7月号より転載

墓マイラー カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)さん












カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)

1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。

巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』
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