多磨霊園の墓。墓石の文字は米内光政が揮毫。右に東郷平八郎元帥、左に古賀大将の墓が並ぶ
「アメリカと戦争することになれば、この日本は二度三度も焦土と化すだろう」(山本五十六)。
連合艦隊司令長官、山本五十六(1884-1943)は軍人でありながら戦争回避に尽力したことで知られる。新潟県出身。父が56歳の時に生まれたことから“五十六”と名付けられた。
超難関の海軍兵学校に次席で入校し、20歳のときに日露戦争に出征。日本海海戦では巡洋艦『日進』でバルチック艦隊と対決し、その際に砲弾の炸裂で左手の人さし指と中指を失った。30代半ばからハーバードに留学し、さらに欧州各国を視察。米国ではケタ違いの国力に圧倒された。当時、原油産出量は日本が741万バレル、米国は4億4293万バレルと約60倍の差があり、日本では珍しかった自動車が、年間200万台も生産されていた。
1939年、陸軍を中心に独伊との軍事同盟を求める声があがる。両国はファシズム国家であり、同盟を結べば米英との対立は避けられない。山本は祖国を危険にさらす軍事同盟を阻止するため、海軍大臣の米内光政、軍務局長の井上成美と共に抵抗した(米内も井上も海外駐在経験があった)。
山本ら“知米・非戦派三人衆”は「腰抜け」と批判され、右翼は山本を国賊と呼び、暗殺計画が噂された。あくまでも同盟反対を貫く山本は遺書を記す。「死んで君国に報いるのは武人の本懐だが、それが戦場であろうがなかろうが変わりはないのだ。いや、戦場で死ぬことよりも俗論に抵抗し、正義を貫いて死ぬ方が本当は難しく大変なことなのだ」。
翌年、新しい海軍大臣・及川古志郎が東条英機に押し切られ、日独伊三国同盟の締結が決定する。この報を聞いた山本は及川に詰め寄った。「政府の物資計画は八割まで英米圏の資材でまかなっているが、この先は英米から資材は入らぬ。その不足を補うため、どういう計画変更をやられたのか聞かせていただきたい」「もう勘弁してくれ」「勘弁ですむか!」。
山本は近衛首相から「対米戦争をすればどんな結果になると思うか」と問われ、次のように返答した。
「実に言語道断。自分は戦艦で命を落とすだろう。そして東京や大阪あたりは三度ぐらい丸焼けにされてしまうだろう」。
その後、山本が恐れていた通り、米国は対日石油禁輸に踏みきった。 日本は追い詰められ対米開戦へと突き進み、皮肉なことに非戦派の山本が攻撃作戦を立案する立場になってしまう。「個人としての意見(開戦反対)と正反対の決意を固め、その方向に一途邁進の外なき現在の立場はまことに変なものなり。これも命(天命)というものか」。
山本は開戦と同時に先制攻撃で大打撃を与え、相手の戦意をくじいて一気に戦争終結へと導こうとした。1941年12月8日、350機の航空機で真珠湾の米艦隊を奇襲し「アリゾナ」など戦艦五隻を沈没、9隻を大破させ、188機の飛行機を破壊した。国民は山本を英雄視したが敵空母を取り逃がしており、これが翌年のミッドウェー海戦における大敗に繋がる。
1943年4月18日、山本は南方最前線のブーゲンビル島バラレ基地へ将兵を見舞うため飛行中に、暗号電報を解読した米戦闘機18機の待ち伏せを受けた。搭乗した一式陸攻は撃墜され、右手に軍刀を握ったまま絶命する。享年59。平民が国葬にされたのは、戦前では山本ただ1人である。
墓は東京の多磨霊園・特別区に建てられ、後に遺骨が新潟県長岡市に改葬されたが、墓石は多磨霊園に残された。「俺が殺されて、国民が少しでも考え直してくれりゃぁ、それでもいいよ」(友への手紙)。
故郷長岡の長興寺の墓。戒名「大義院殿誠忠長陵大居士」が彫られている。近所の記念館では遺品を展示
※『月刊石材』2014年9月号より転載
カジポン・マルコ・残月(ざんげつ)
1967年生。大阪出身。文芸研究家にして“墓マイラー”の名付け親。歴史上の偉人に感謝の言葉を伝えるため、30年にわたって巡礼を敢行。2,520人に墓参し、訪問国は五大陸100ヵ国に及ぶ。巡礼した全ての墓を掲載したHP『文芸ジャンキー・パラダイス』(http://kajipon.com) は累計6,500万件のアクセス数。
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