世界一有名な日本人~天才絵師・葛飾北斎
「画狂老人卍墓」とだけあり″北斎〟の名はどこにもない。風化が進んでおり墓参を急がれたし!
昨今はノーベル賞やスポーツ、映画界などで日本人の活躍が頻繁に伝えられ、胸躍ることが多い。歴史的に世界で最も有名な日本人は誰か。
1998年に米誌『ライフ』が企画した「この1000年間に偉大な業績をあげた世界の人物100人」に、日本人では江戸の浮世絵師・葛飾北斎だけが選出された。北斎は人物画、風景画、歴史画、漫画、春画、妖怪画、百人一首、あらゆるジャンルに傑作を残し、ゴッホやモネ、ルノワールらも夢中になった。
1760年に現在の墨田区に生まれた北斎は、14歳で版木彫りの仕事につく。彫りながら文章や絵に親しむうちに“自分でも描いてみたい”と思うようになり、18歳で人気浮世絵師・勝川春章に入門したが、向学心から狩野派の画法や洋画なども隠れて学び、師から「他派の絵を真似るうつけ者!」と破門された。貧困の中で灯籠やうちわの絵を描き、トウガラシや暦を背負って行商しながら、「餓死しても絵の仕事はやり通してみせる」と筆を走らせた。やがて、当時の絵師にとって人物の背景に過ぎなかった“風景”を、あえて主役にするという革命を起こす。
70歳を過ぎて刊行された『富嶽三十六景』では、あらゆる角度から霊峰・富士を描きあげた。構図は練りに練られ、富士を中心に宇宙が広がった。作中には庶民の生活も丁寧に描かれ、江戸っ子は富士と自分たちとのツーショットを喜び、“北斎と言えば富士、富士と言えば北斎”と喝采した。
4年後に完成した『富嶽百景』では、あとがきにこう寄せた。
「73歳になってどうやら、鳥やけだものや、虫や魚の本当の形とか、草木の生きている姿とかが分かってきた。(略)百歳になれば思い通りに描けるだろうし、百十歳になったらどんなものも生きているように描けるようになろう。(皆さん)どうぞ長生きされて、私の言葉が嘘でないことを確かめて頂きたい」
北斎は長寿であったため、様々な逸話が伝わる。縁日の余興で120畳(200平米)の布にダルマを描いたかと思えば、小さな米一粒に雀二羽を描いて人々を驚かせた。11代将軍家斉の御前で鶏の足の裏に朱肉を付け紙上を走らせ“紅葉なり”と言い放ったことも。改名は30回に及んだが、それは“無名の新人のふり”をして真の実力を世に問うためだった。
晩年の北斎は、先妻、後妻、長女に先立たれ、孫娘と2人で窮乏生活を送る。79歳で火災にあい、10代から70年も描き溜めてきたすべての写生帳を失ったが、1本の絵筆を握り締め「だが、わしにはまだこの筆が残っている」と気丈に語った。1849年、浅草の長屋で88年の生を終える。
死を前にした言葉は「せめてもう10年、あと5年でもいい、生きることができたら、本当の絵を描くことができるのだが」。
墓は上野から浅草に続く大通の裏手、誓教寺にある。墓石は小さなお堂の中にあり雨風から守られていた。刻まれた名前は晩年の画号「画狂老人卍墓」。“画に狂った老人”という名に凄味を感じると同時に、己の信じた道を歩みきった男の姿に勇気をもらえる墓だ。
誓教寺境内の北斎像。寺の入口には英文の案内板があった。海外からの巡礼者も多いのだろう
※『月刊石材』2013年1月号より転載
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