詩に昇華された愛~高村光太郎と智恵子
東京・染井霊園の墓。
側面右から11番目に智恵子(遍照院念誉智光大姉)、12番目に光太郞(光珠院殿顕誉智照居士)の名が刻まれている
墓石は単なる石ではなく人――墓巡礼の度にそのように感じる。
東京の染井霊園で高村家の墓前を訪れた際は、光太郎と智恵子の戒名が仲良く並ぶのを見て、両者の再会に立ち会った思いがした。
光太郎は1883年東京生まれ。父は著名な仏師・高村光雲。22歳のときにロダンの『考える人』の写真を見て衝撃を受け、翌年に欧米へ留学。約3年間の渡航生活で近代の自由精神を身につけて帰国した光太郎は、日本社会にこびり付いている古い価値観や美術界の権威主義に強く反発した。
28歳のときに3つ年下の女流洋画家・長沼智恵子と出会い、愛を育む。光太郎の詩は怒りと苦悩に満ちたものから、穏やかな理想主義とヒューマニズムが貫かれるようになった。31歳で最初の詩集『道程』を刊行し結婚。
「私はこの世で智恵子にめぐり会った為、彼女の純愛によって清浄にされ、以前の退廃生活から救い出される事が出来た」
幸福な日々を送る2人だったが、結婚15年目に、酒造業を営む智恵子の実家が破産し、一家は離散。彼女は心労から精神を病み始め、睡眠薬で服毒自殺を図る。未遂に終わったものの症状は進行していった。
「2つに裂けて傾く磐梯山の裏山は 険しく8月の頭上の空に目をみはり 裾野とほく靡いて波うち 芒ぼうぼうと人をうづめる 半ば狂へる妻は草をしいて坐し わたくしの手に重くもたれて 泣きやまぬ童女のやうに慟哭する――わたしもうぢき駄目になる」(『山麓の二人』から)
1938年、智恵子は7年にわたる闘病の末、肺結核のため52歳で旅立った。最期にレモンをかじったところ意識がハッキリし、そのまま息を引き取ったという。3年後、光太郎は30年に及ぶ二人の愛を綴った詩集『智恵子抄』を刊行した。
終戦を迎えると、戦時中に戦意高揚の詩を書いたことを恥じ、反省の念から岩手・花巻郊外の山間に身を引いた。ひとけのない土地に粗末な小屋を建て、三畳ほどの小さな土間と自ら開拓した畑で自炊した。この謹慎生活は六十二歳から六十九歳まで七年間も続いた。
1956年、光太郎は智恵子と同じ肺結核でこの世を去る。享年73歳。友人・梅原龍三郎の弔辞「たとえ1点の作品がなくても君は君の人格と生活態度によって高邁なる芸術家であった」。
光太郎が岩手で暮らした小屋は「高村山荘」の名で保存・公開されている。山荘から高村光太郎記念館に続く道に詩碑があり、地下には遺髪や遺品が埋葬されている。詩碑の裏山の山頂には「智恵子展望台」があり、光太郎はそこから「智恵子、智恵子」と何度も叫んだという。
巣鴨の染井霊園には2人を慕うファンが数多く墓参するため、霊園の管理事務所で無料の案内マップを配布している。広い墓地ゆえ地図を見ながら墓に向かおう。
「愛する心のはちきれた時 あなたは私に会ひに来る すべてを棄て すべてを乗り越え すべてを踏みにじり 又嬉々として」(『人に』から)
遺髪墓でもある「雪白く積めり」の詩碑。自筆原稿の銅板がはめ込まれている(岩手・花巻)
※『月刊石材』2014年3月号より転載
カジポン・マルコ・残月(ざんげつ) |