詩人で歌人の 北原白秋
昭和15年(1940)に西条八十作詞、服部良一作曲による「蘇州夜曲」が発売されるやレコードはたちまち大ヒット。歌ったのは渡辺はま子であった。
♪君がみ胸に 抱かれて聞くは 水の蘇州の 花散る春を…
という一番の歌詞から始まって、
三番の
♪涙ぐむよな おぼろの月に 鐘が鳴ります寒山寺
で終わるこの歌に代表されるように、蘇州は水のキレイな所として古来より知られていた。
しかし、「蘇州夜曲」や漢詩を真に受けて彼の地を訪れた者は一様にガックリする。何とこキタナイ水、そしてこんなつもりでなかった寒山寺。そこへいくと我が日本国の水郷潮来や筑後柳川の水の清々しさはどうだ と胸を張って威張れちゃうよ。
この柳川出身の白秋は本名を隆吉といい大きな酒造の家に生まれた。幼き頃からナイーブで詩作をしたり読書にふけったりの日々。明治35年(1902)に初めて詩を投稿する。その頃からオラ東京さ行くだ!と心に決めていたらしい。その二年後に上京して早稲田大学英文科予科に入学したのである。1905年「文庫」に「全都覚醒賦」を載せ詩壇に知られるようになった。覚醒賦で良かった。覚せい剤だったらその時点で将来は無かったネ。
「明星」に参加したものの与謝野鉄幹への不満から脱会。1909年高村光太郎、木下杢太郎らと「パンの会」を始め、雑誌「スバル」「屋上庭園」などすぐれた作品を発表した。更に同年第一詩集「宗門」が話題を呼んで知名度をあげた。そして1911年の「思い出」という抒情小曲集は満塁走者一掃のクリーンヒット。ボクの好きな詩の一つは「初恋」…
♪薄らあかりにあかあかと 踊るその子はただひとり 薄らあかりに涙して 消ゆるその子もただひとり
薄らあかりに、おもいでに 踊るそのひと、そのひとり…
詩作も歌作も精力的にこなした。1915年に歌集の「雲母集」を刊し21年には「雀の卵」を出す。
♪ヒヤシンス薄紫に咲きにけり 早くも人をおそれそめつつ 照る月の冷さだかなるあかり戸に 眼は凝らしつつ盲ひてゆくなり
この歌にもある通り白秋は眼の病にかかってしまう。次第に薄れゆく眼……物書きにとってこれ程の恐怖あせりはいかばかりであったか。だが白秋センセ、カチンカチンのカタイお方だと思ってたら何と人妻と出来ちゃって、これが問題となり獄舎へつながれた事もあったというからホットしたネ。あんたも同じ人間!ハイ ハクシュウ!
1934年(昭和9年)に歌集「白南風」を出し、文学運動として「多摩短歌会」を結成「多摩」を創刊し、1918年から手を染めた児童文学のジャンルとして日本に新しい童謡文学を打ち出した。大正7年(1918)にレコード発売された
♪雨はふるふる城が島の磯に 利久鼠の雨がふる…
という「城が島の雨」や、
♪からたちの花が咲いたよ 白い白い花が咲いたよ…
の「からたちの花」。大正13年(1924)は当時の人々に親しく歌われた。白秋は晩年芸術院会員に推されたが、58才という今だったら若すぎる年令を腎臓病の為に天に召されてしまった。
そして「多摩短歌会」をつくり、「多摩」を創刊した白秋の墓は「多磨霊園」にある。タマタマでも通りがかったらお寄り下さい。