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将棋の名人は旅人サンだった 関根金次郎

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ 青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

金次郎は千葉県葛飾郡二川村宝珠花(現関宿町)に生まれた。物心ついた頃から将棋大好き少年。12才の時にオラ将棋指しになるだ!と風呂敷包みを背中に上京し、十一世名人伊藤宗因の門を叩いた。だがその頃は将棋界は低迷していたし、世間では半端人、極道として見られていたのである。


金サンは20才から40才ぐらいの間に日本を三巡する旅をしたってんだから凄い。将棋の武者修行は正に武士が道場に立寄って試合を申し込んだり、侠客たちが土地の親分を訪れて一宿一飯の恩義にあずかるのと全く同じだったという。


腰に刀ならぬ駒袋を下げ、ワラジを脱ぐ折は仁義を切る。手拭いを紙に包んで差し出して、「私は○○の××と申す旅の将棋指しでございますがご当地初めての事ゆえ何分宜しくお願い致します。これはホンの土産のしるしです」と挨拶する。その時相手がまあ上がっておくれとくりゃその手拭いを受け取り、そうでない時は五銭か十銭程のワラジ銭を包んでくれた。


旅のエピソードにこんなのがある。まだ21ぐらいの時に東海道を旅し、伊三郎という土地の顔役から清水次郎長を紹介された。次郎長はもう70才くらいになっていたが悠り遊んでいきなさいといわれ、子分達に将棋を教えたりしたという。


大政、小政など映画でお馴染みの面々と過ごしたなんていいじゃん金サン。しかしその頃の金サンまるで金ナシ。仁義の手拭いも買えず川で六尺褌をはずして洗い、それを適当に切って手拭いの代わりに差し出した事もあるとか。これが大宮の顔役で玉金一家の貸元の所での話。玉金の所之睾玉包んでいた布を出すなんてイイ玉だあネ。


又、或る時川越の古道具屋の前でハラがへりすぎてブッ倒れそうになり店の中へ飛び込んだ。店の親父が「どうなすった?」と聞くと、金サン「ハラがペコペコで、何か食べる物が欲しいのですが」「じゃ何か売る物あったら買ってやるよ」勿論みすぼらしい身なりの彼から買う物なぞある訳ない。すると金サン例の褌を外して差し出した。親父は黙って天保銭を一枚くれた。イキだねこの親父。


1893(明治26)年師の宗因が死去しその後十二世名人を68才の小野五平が継ぐ事になった。サア金さん収まらない。しかも名人披露の宴である招待状がどういう訳か金さんだけ来ない。32才の若い金さんはプッツン切れた。小野にあんたと私とどっちが強いか勝負しようと果し状をつきつけた。しかし政界や各界のお偉いさんが仲介に入って何とか収まり、1921(大正10)年に十三世名人を就位した。


あの坂田三吉との対局はつとに有名で、三吉が如何に関根に対して生命がけ対局にのぞんだかは、映画や芝居で何度も紹介されて有名。あの「王将」の歌は作詞した西条八十、作曲の船村徹、歌手の村田英雄の三人が共に全く将棋を知らないで出来たのだから不思議だ。金次郎の墓は関宿の万福寺に。

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