北方領土で名を売った 間宮林蔵(1775~1844)
林蔵サンは常陸国(茨城県)筑波郡谷井田村(現伊奈町)の農家の子として生まれた。幼少の頃から頭が良く、殊に算数の才能は群を抜いてたとか。十代前半で江戸へ出て一際優れた才を活かして幕府普請役雇になった。
1800(寛政12)年、蝦夷地御用雇として千島に派遣された。丁度この地で測量中の伊能忠敬に出会い、測量技術を学んだ。
そして、まだ島なのか半島であるのかわからなかったのを、ハッキリ樺太(サハリン)は島であると発表したエラーイ人なのである。
タタール海峡は間宮海峡の名で世界地図上永久不滅の栄誉となっている。だが、この人は測量に優れていたが度量が狭く、人の集まる所へ行っては自分の業績を自慢したり、あのシーボルトがヨーロッパ諸国に間宮の偉業をたたえてPRしてやったのに、シーボルト事件の時に恩人の一人、高橋景保を密告して牢に送るなどして人々にうとまれてしまい、晩年は淋しい人生だったとか。アー、タタール(祟る)侮きようになるとは。
ロシアのゴロヴニン海軍大佐に、日本人は戦争にかけてはどの国にも負けんぞ と日本の兵法を自慢し、威嚇したのだ。外国人をおどした日本人第一号の林蔵。どこか鈴木宗男さんと似ているのである。一方は農家の子から、一方も同じような叩き上げの……ネ。
で、何故か北方領土に力を入れたあげ句、最後は淋しい人生を送る事になるのはどういう訳か?
もう一人探検家で幕臣の近藤重蔵も四度蝦夷地に赴き、千島列島を調査し書物奉行になったのに、晩年長男の殺傷事件に連座して流刑になり罪人として死んだ。
彼も強引な性格でエトロフ島にロシア人が建てた標柱をブッ倒して、大日本恵土呂府という標柱を建ててしまったのだ。この時から日本とロシアは植民地の争奪戦をくりひろげているのだから凄い。
そこへ鈴木宗男クンがまたまた悪行で名を売った。証人喚問でのテレビの視聴率たるやビックリ仰天。かつてのロッキード事件の時の証人喚問に次いで第二位で、長嶋・王対決の日本シリーズの時と同じ32.9%を記録したのだ。
国後島のムネオハウスやコンゴ人私設秘書のムルアカ氏の問題もさる事ながら、次々に疑惑の出るワ出るワ。自民党を辞めても議員は辞めぬと地元へ行って弁解の行脚。しかし地元民もウンザリ。
北方領土に力を注いだ宗男サン、近藤サン、そして間宮サン。いずれも華々しい功名を得て得意の絶頂から転落。北方領土は還らず、失った名声は還らずでは一寸淋しすぎますよ。
林蔵は探検家であると同時に幕府の密偵(スパイ)でもあったし、シーボルトもスパイとして日本に入り込んでいた。日本の重要な江戸城の秘密の地図他を大分持ち去ったとか。そのうち”鑑定団“のテレビに出てくるかもネ。
間宮林蔵の墓は東京の江東区平野町の道路沿いにあるが、生まれ故郷の茨城県伊奈町上平柳にある専称寺にもある。
宗男氏失墜後ロシアは困惑しているとか。でも私、そしてマジシャンのムッシュ品田はロシアの女性ばかりいる美人クラブで日ロ友好に精を出して国交を深めている所です。