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マッキンリーの山に消えた 冒険家 植村直己サン

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

東京板橋区赤塚に乗蓮寺という立派なお寺さんがあって、ここの墓地にあのマッキンリーで消息を絶った植村直己さんのお墓がある。その遺体は遂に発見出来なかったが供養のための墓は建てられ、その正面には詩人の草野心平が讃える詩を書いている。この人も随分心平(配)したなんてシャレも今日はよそう。何しろ日本中がイヤ世界の方々もその無事を祈ったのに、1984年3月8日、マッキンリーの捜索隊から捜索を打切って下山するという連絡が入ったのだ。


マッキンリー。それは6194mの山で、この山そのものが本当の植村直己さんの墓といえるかも知れない。そう思えば植村さんこそ世界一大きな墓に眠っているといえるだろう。1984年2月1日に植村さんはマッキンリーのカヒルトナ氷河ベースキャンプ(2200m)を出発した。そして12日午後6時50分に厳冬期単独初登頂に成功したのである。だが喜びも束の間、13日にはその消息が……。


冒険家植村は1941年2月12日に兵庫県城崎郡日高町で、姉2人、兄3人の末っ子として生まれた。県立豊岡高を卒業し一時就職したが1年足らずで辞めて、明治大学農学部農産製造学科に入学した。そこで山岳部へ入部して山との出会いが始まる。次々と在学中に日本の山々を踏破。1964年、23才で明治大を卒業するやその5月、移民船のアルゼンチン丸で横浜からロサンゼルスへ渡った。しかしアルバイトの不法労働で米国退去命令。


それじゃとヨーロッパへ行っちゃう。アルプス、シャモニー、モンブラン。そのモンブランに登ってる時に滑ってクレバスへ落ちて危うく死ぬ所だった。マッターホルン(4478m)やケニア山(5199m)、キリマンジャロ(5895m)等々難しい高い山を次々に征服した。


登った山は数知れぬから省いて、ここにかつて「植村ですどうもすみませんです」という題名の本を読んだ時、厳冬の山でトイレをするという所をメモしておいたのでちょっとご紹介。バケツにダンボール箱を円形に切り、五枚ほど重ねてビニールテープをグルグル巻きつけて便座らしき物をつくったという。小屋の中に置いて、用を足す時はマイナス数十℃の外で足すんだと。便は中央にせず周囲にまき散らせとか、便座は必ず室内に持ち帰れとか、便がバケツに一杯になったら交替で捨てに行けなどが紙に書かれていたらしい。バケツの便座はシャーベット状で坐った時の冷たさ痛さはたまらないそうな。小便を中央に一点にすればヤリのようになるので散らすとか。アッという間に凍るので臭さは無く捨てに行く時はビニールの袋の端をつまんで肩にかついで行くんだそうな。クソまじめに。


北海道の帯広動物園の犬舎の前に、「植村直己記念館・氷雪の家」が1985年に完成した。何処の国へ出かけても何ひとつ奥さんにお土産を持って来なかった植村さんが、帯広市の方々に天国からお願いして公子夫人に贈ったたったひとつのデッカイ贈り物の記念館であろう。合掌


〔写真〕東京・板橋区の乗蓮寺にある植村直己さんのお墓

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