パリの日本人 荻須高徳 画伯
パリへ行くと必ず画家の元村平先生ご夫妻の世話になる。ショウのチケットを買っていただいたり、早朝のフリーマーケットのあるフォト・デ・バンブーへ連れて行ってもらったりする。またある時はパリから40分ほど走るオーベールの町まで行っていただき、ゴッホの墓に案内してもらった。この荻須さんの墓も生前にお付き合いのあった先生にご一緒してもらって説明していただいたので大助かりであった。
「荻須先生はとても物静かでね、誰に対しても腰が低く素晴らしい方でした」と語る元村先生も全く同様の方である。
明治34年に愛知県の千代田村(現・稲沢)に荻須センセは生まれた。大正9年に上京してそれから川端画学校で藤島武二の指導を受けた。そして東京美術学校を大正15年に卒業してパリへ渡ったのである。モーリス・ユトリロの作品に影響を受ける。
一旦は第二次大戦のために帰国するが、やはりフランスの地への憧れは捨て難く、大戦が終結するや再びパリへ渡ってついに彼の地で逝った。モンマルトルのその墓は実に奇妙で円柱が途中で折れている型。「何で?」と元村先生にお聞きしたら、志半ばにして亡くなった先生の気持ちを表しているのだとか。その朝まで筆をとっていて絵筆を洗う間もなく倒れてしまったそうな。
よく役者は舞台で死ねたら本望だと言う。だから絵筆を持ったまま亡くなられたら本望なのだろう。この時のことを話したら春日三球さんが言う。「ボクの学校の先輩がね、彼女とセックスの最中に腹上死したんですよ。あれも志半ばで死んじゃったんだから男性のシンボルが途中で折れた墓造ったらいいのかな」。何という不謹慎、何たる暴言。何という芸人らしいお言葉!!
荻須先生の墓にも下にパレットを石で造って置いてあるが、墓地を歩くと大抵の画家の墓にはそれがあるからわかり易い。奥さんは黒い石で造りたかったらしいが、やや赤味がかったこの石の方が汚れが目立たなくていいと、石屋さんに言われたのでそうしたとおっしゃったそうな。絵を描いていた時そこへ入れるサインのoguissという文字が刻まれているが、これをogisuと書くとフランス人はオギスと読まずオジュジュと読んでしまうんだと。オジュジュじゃお数珠みたいだもんね。
「荻須先生はパリの街角を好んでお画きになったんですよ。当時の市長さんでジャク・シラクって人が、荻須氏は最もパリ的な日本人とおっしゃったんですよ」と元村先生。なるほど、かつて「パリのアメリカ人」てな映画があったけど、荻須高徳は、藤田嗣治、佐伯祐三らと正しく「パリの日本人」なんだ。
帰り道入ったカフェで元村センセ。「ここでよく荻須先生にワインをご馳走になりましてね。いい方でした。うれしさんもいい人になりたかったらワインをご馳走することです」。いや元村センセはもちろん冗談でおっしゃったのです。でもボクは本当に一日お付き合いいただいたのでワインも食事もご馳走するつもりでした。なのに、ちょっとトイレへ立ったスキに、先生が支払っちゃったんです。志半ばでして!!
「ご馳走様」と腰を折りました。
〔写真〕フランス・モンマルトル墓地に眠る荻須高徳画伯