虎退治の武将 加藤清正(1562~1611)
最近見かけなくなったが、以前はよく掛軸で、加藤清正が虎退治をしているのを床の間に掛けている家があった。20年以上も前になるが、山形県の鶴岡という所へ仕事で行った時に加藤清正の墓を撮りに行ったことがある。熊本にあってしかるべき墓が何で見当違いの鶴岡にあるのか。実は話はこうなる。
清正は永禄5年(1562)、秀吉と同じ尾張中村(名古屋市)に清忠の子として生を受けた。幼名が虎之助。3才の時に父が他界したので、5才の時、母は秀吉の母といとこであったから秀吉のもとへ預けられた。15才で元服して170石を与えられ、20才の時初陣を飾った。以後、各地に転戦してその力を発揮した。歴史上有名なのは天正11年の賤ヶ岳の合戦で、片桐且元、福島正則らとともに七本槍に数えられた。この戦いで300石を加増されて出世街道をゆく。続いて天正15年に九州遠征に行って大活躍。小西行長とふたりで半分ずつやると、肥後(熊本)の地を貰った。これでトラさん25万石になった。秀吉はサルと信長から呼ばれたが、サルとトラはウマが合ったのか秀吉が命を下し清正が戦地へ行けば大勝利。使用した槍は十文字槍という特注のもので、これを縦横無尽に振って敵をなぎ倒したのである。
文禄元年(1592)、秀吉は朝鮮に14万の大軍を差し向けた。ツアーの旅行でなく戦争だよ。小西行長とともに苦戦しながらも敵を破って釜山あたりに城を築いて守備固め。ところが秀吉からすぐに日本に戻って来いとの命令。帰ってみればほめられると思ってたのが何と蟄居だなんて。実は石田光成が清正は小西のことをバカにして口汚くののしったことや、自分が豊臣であると名乗ったことや、清正の家来が明の正使からゼニを奪ったことなどを報告したため秀吉はカンカン。しかし講和を求めて来た明の副使楊サンと話は物別れ。再び朝鮮出兵となり、清正も汚名挽回と参戦した。清正が虎退治したという話はこの時できたものだろう。朝鮮で戦いが続いている最中、慶長3年(1598)8月に秀吉が死んでしまった。その死を秘して何事もなかったように日本軍は引揚げてきた。
慶長5年に天下分け目の関ヶ原の戦いが起こった。小西や石田と合わぬ加トちゃんは徳川方にFAを宣言してついた。これがうまく当たって家康から肥後を全部貰う。そしてアッという間に51万5千石の大名となった。しかも家康のご紹介で水野忠重さんの娘をめとって徳川との関係をよくした。
この後、豊臣は滅び徳川の世となるが、一説には秀頼と家康を二条城で会見させての帰りの船の中で死んだとあるし、また一説にはソロソロ邪魔と豊臣を叩き潰してから城中へ呼び、毒マンジュウを食わせて殺したとか…。
ア、そうそう冒頭の清正の墓ですよね。死後、熊本城内に埋めてあったが、息子忠広の時にお咎めあって鶴岡へ母とともに流されてしまう。その時ソッと骨を抱いて流刑の地へ運んで誰にも明かさず隠し墓を造って供養したとか。ウソか本当か知りませんがね。警察が今は酔っ払い運転のトラ退治してます。ご用心!! 墓は東京五反田にもあるが、写真は鶴岡の天澤寺。
〔写真〕山形県鶴岡の天澤寺にある加藤清正さんのお墓