オリンピックに出したい弓の名人 那須与一
誰でもが知っている民謡の稗搗き節(ひえつきぶし)だが、たいていの歌謡曲がそうであるようにこれも1番の歌詞しか知らない。ましてこれが4番まであるなんて知らないし、源氏と平家が歌詞に出てくることなんざトーンとご存知ありませんでしたね。歌詞は二行詩でまったく短い。
“庭の山椒の木に鳴る鈴かけてよ 鈴が鳴る時や出ておじゃれよ”
“鈴が鳴る時や何というて出ましよよ 胸に水くりよというて出ましよ”
と、2番までは聞いたことがあるよ。しかしその後、
“お前や平家の公達流れよ おどんま追討の那須の裔よ”
“那須の大八鶴富捨ててよ 椎葉発つ時や目に涙よ”
となって、ああこりゃ源平の子孫の恋のオハナシかと分かる。この那須の大八の一族にかの弓の名人、与一宗高がいたのだった。
寿永4年2月19日、冬の風が厳しく吹くクソ寒い日であった。冬晴れの海に源氏に追われた平家の船が浮いていた。浜辺には源九郎義経の軍がズラーリ。すると1艘の船が船団を離れて浜の方に漕ぎ出した。そして100メートル程の距離につけて止まった。どうするのかと見ていると、長い竿の先に扇を結んでそれを船のへさきに立てたのである。そして白羽二重の着物に真紅の袴をはいた1人のいと美しき乙女が竿に手を添えて立ち、ニッコリと笑って扇のカナメの所を指している。つまりここを弓で射ち落せるかい!と源氏の兵士にチョー発したのです。この女が藤原紀香と高島礼子を足してもまだ足りぬ程の美女。しかも着物の上からハッキリわかる超ボインちゃん。
もう源氏の兵達はドタマグラグラ。義経もこうなっては後に引けない。「誰ぞあの扇を射る者はおらぬか」。心はやれど見れば高波にゆらゆら揺れている。とても射落とせる自信などない。この時那須の与市が進み出た。大丈夫か?と義経聞けば「何とか那須のみ」と言ったかどうだか。とにかくやらねばならぬと南無矢八幡大ボサツ、妙法蓮ゲキョーにアーメンと心に祈って矢を放てば見ン事扇のカナメへパチンと当たった。ウワーッとあがる源氏の歓声。流れる巨人の応援歌。
一方平家の武士や公家、女官もこの時ばかりは敵味方なし、船ベリ叩きオッパイゆすって大騒ぎ。与市は面目施し大ミエきって元の場所へ下った。義経もうれしくてたまらない。しばらく戦い休んで酒、ビール、ワインに焼酎、何でも飲み放題で大パーティー。
与市はその後軍功によって丹波信濃の荘園を領地としてもらったが、京都で病に倒れた時それを治してくれた霊験あらたかな伏見の即成院が忘れられず、地位も名誉も捨てて即成院に小庵を結んで入道となった。与市でなく本来は与一だが、11番目の子として生まれたので余一とされたのを後に与一にかえたという。余計な話ですがネ。そしてわずか34才で他界する。与一だものせめて41才までね。
弓の名人、那須与一さんのお墓は京都東山の即成院にある(写真)