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豪弓を射た為朝の最後に島民は号泣。源為朝、伊豆大島に

青空うれしの墓を訪ねて3000キロ

男と生まれたからにはひ弱より逞しい方がいいに決まっている。昔は竹棒持ったガキ大将が突っ込めーとか云って戦争ゴッコやったり、鞍馬天狗や近藤勇になってチャンバラゴッコに興じたものである。今は家でパソコンやったりテレビを見て高級菓子を食ってるホシガキばかり。何でホシガキ? 何でも物を欲しがるガキだからさ。


豪傑といわれた武士がゴマンといた昔の話……。先日、伊豆の大島へ久し振りに行って来た。行けば必ず立ち寄るのが、伝説の豪弓を射た大力の源為朝の住居跡と、ビックリするほど小さく粗末な墓。だがこの墓の前に立つたびに身が引き締まり自然と背筋がピンとなるのだ。


為朝は源氏の嫡流為義の八番目の子であったから通称を八郎と云った。つまりこの辺は歌手の大下八郎と変わらないが、変わっているのは小さい時から大きかった。大人が引けない弓を軽く引き片手で50キロの石を持ち上げた。乱暴で手がつけられず、こんな奴は家へ置いておけぬと九州の豊後(大分)へ追放してしまった。為朝13歳の時である。


ところが行った先の九州でもおとなしくしていない。肥後(熊本)の豪族阿曽忠国のムコになると近隣の豪族を攻めて従わせてしまうといった具合。何とかしてチョーダイと朝廷に調停を申し入れ、何とか静かになる。


じゃこんな田舎にいたって仕様がないよと京都へ戻って来た。その2年後に保元の乱が起こった。崇徳上皇と後白河天皇が皇位争いをした。為朝は為義に従って上皇方について得意の豪弓でバッタバッタ。だが戦いに利あらずして敗れ、崇徳上皇は讃岐(香川)に流されてしまった。京都で懐石料理食ってたのにうどんばかり食うようになったとさ。一方、為朝は本来なら断首されるところを、その武勇を惜しまれ大島配流ということになった。この時、万一また反逆したらと恐れ、肘の筋を切断してしまったという。


保元元年(1156)伊豆大島に着くと代官藤井三郎太夫忠重に預けられた。為朝はすぐにリハビリにとりかかった。大きな石を持ち上げ、大木を担いだり岩を登り海中にもぐったりして、メキメキ回復して以前より長い弓を引くようになったというからロッキーも負けるね。代官殿もおったまげてこりゃいかん、今のうちに親せきになっておかにゃと、その娘をプレゼント。為朝も好みの女でゴッツァンです。2人の間に二男一女をもうけ、ただ呆然と暮らす島民に農耕や野牛の飼育をさせて島に活気をもたらした。


その間もジッとしていないで新島、神津島、三宅島、御蔵島へ出かけてこれらを全部自分の支配下に置いてしまったってんだからこの八郎、イチローより凄いよね。噂を聞いた旧臣達も御大将が元気でやってるらしい、それじゃ行こうよと集まって来た。伊豆の領主狩野介茂は慌ててヤバイですとデンポー。嘉応2年(1170)4月、兵船25艘を仕立てて攻めさせた。大力無双の為朝は心がやさしい。俺のために罪のない島民に迷惑をかけたくないと、部下にも知り合いにも形見分けして逃がしてから、見事に腹を切って果てたのである。時に32歳であった。


源為朝のお墓は伊豆大島にある(写真)

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